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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第45話 感じすぎるもの 第5章 残るもの

 修正は終わった。


 松尾芭蕉は消えた。


 四季が重なり続けていた残響空間も、ゆっくりと崩壊を始めている。


 桜が散る。


 雪が溶ける。


 夏草が風へほどける。


 紅葉が光へ変わる。


 残されていた景色たちが、一つずつ世界へ還っていく。


 終わりだった。


 本当に。


 今度こそ。


 松尾芭蕉は最後まで振り返らなかった。


 旅人らしく。


 ただ前だけを見て。


 そして消えた。


 その背中を見届けた瞬間。


 梓の膝が崩れた。


 身体が言うことを聞かない。


 地面へ手をつく。


 だが感覚が曖昧だった。


 触れている。


 その認識はある。


 しかし実感が薄い。


 土の冷たさも。


 雨の湿り気も。


 ほとんど分からない。


 転位侵界。


 代償は確実に進行していた。


 視界の端で空間が崩れる。


 残響空間は消滅し始めている。


 その向こうから声が聞こえた。


「真名井!」


 高峰だった。


 結界が消えたのだろう。


 高峰が駆け寄ってくる。


 梓は立ち上がろうとした。


 だが上手くいかない。


 どこに力を入れればいいのか分からない。


 足の位置が曖昧だった。


 身体の輪郭そのものが薄れているような感覚。


 高峰が肩を掴む。


「大丈夫か」


 梓は数秒考えた。


 考えなければ分からなかった。


「……分かりません」


「何?」


「今、自分の足がどこにあるのか少し曖昧です」


 高峰の顔色が変わる。


 怪我ではない。


 精神でもない。


 もっと根本的な何かだった。


 梓は高峰へ視線を向ける。


「立っているつもりです」


 少し苦笑する。


「でも、立てているのか自信がありません」


 高峰は言葉を失った。


 今まで何度も見てきた。


 転位侵界。


 だが今回ほどはっきりと代償が現れたことはない。


「その術は」


 高峰が低く言う。


「……いつか死ぬぞ」


 雨音だけが響く。


 梓は少し考えた。


 否定できなかった。


「そうかもしれません」


 静かな返答だった。


 だが後悔は無かった。


 梓は空を見上げる。


 そこには何も無い。


 桜も。


 雪も。


 夏も。


 秋も。


 もう消えた。


 だが。


 松尾芭蕉が見ていた景色だけは覚えている。


 忘れられない。


「……消えましたね」


 高峰が隣へ立つ。


「何がだ?」


「景色です」


 少し間が空く。


 雨が降っている。


 ただそれだけの空だった。


 それでも。


 梓は微かに笑った。


「でも残りました」


 高峰には意味が分からない。


 だが梓だけは知っている。


 景色は消える。


 旅も終わる。


 人も死ぬ。


 それでも。


 誰かの中へ残るものはある。


 松尾芭蕉が最後に見たもののように。


 静かに。


 確かに。




 その頃。


 祀社では。


 愛音が帰還していた。


 転移門が閉じる。


 黒い粒子が霧散する。


 いつもなら真っ先に主の元へ向かう。


 報告する。


 褒めてもらう。


 それだけだった。


 だが今日は違う。


 主の部屋の前で足が止まった。


 理由が分からない。


 胸が重い。


 苦しい。


 不快ではない。


 だが落ち着かない。


 愛音は自分の胸元へ触れた。


 翡翠が脈打っている。


 鬼たちは静かだった。


 それなのに。


 胸だけが騒がしい。


《入れ》


 主の声が落ちる。


 愛音は小さく返事をした。


「はい」


 扉を開く。


 部屋へ入る。


 主様がいた。


 人ではない瞳。


 それを見た瞬間。


 少し安心した。


 本当に少しだけ。


《報告》


 愛音は答える。


「温覚鬼とられちゃった…」


 少し迷う。


「…回収できなかった」


《確認》


 主は怒らない。


 責めない。


 ただ事実だけを受け取る。


《寄生体三体損耗を確認》


「……うん」


 愛音は頷いた。


 そこで主が言う。


《愛音》


「なに」


《何故停止した》


 愛音は答えられなかった。


 脳裏へ浮かぶ。


 消えていく三人。


 修正の光。


 最後の言葉。


 逃げてください……


 愛音は俯いた。


「……分からない」


 本当に分からない。


 どうして。


 どうして逃がしたのか。


 どうして死んだのか。


 どうして。


 自分を守ったのか。


「あの……」


 愛音が小さく言う。


「どうして守ったの」


 主は答えない。


 沈黙だけが落ちる。


 愛音は待つ。


 だが返事はない。


 その代わり。


 主は愛音を見ていた。


 正確には。


 翡翠の奥を。


 骨鬼。


 血鬼。


 肉鬼。


 皮鬼。


 夢鬼。


 影鬼。


 鏡鬼。


 虚鬼。


 その深部。


 今まで存在しなかった揺らぎがある。


 感情だった。


 主は静かに判断する。


《観察継続》


 愛音には意味が分からない。


「?」


 首を傾げる。


 だが説明は無い。


 主はそれ以上語らない。


 やがて愛音は部屋を出た。


 長い廊下を歩く。


 誰もいない。


 静かだった。


 途中で足が止まる。


 不意に思い出した。


 消えていった三人の顔を。


 逃げてください。


 貴女だけは。


 守ります。


 愛音は胸を押さえる。


 苦しい。


 怖い。


 そして。


 少しだけ。


 泣きそうになる。


 理由は分からない。


 感情の名前も分からない。


 ただ。


 今まで無かった何かが胸の奥に残っていた。


 春は終わる。


 景色は消える。


 だが。


 残るものはある。


 それは松尾芭蕉が残した景色ではない。


 愛音の中へ残った。


 名前の無い違和感だった。

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