第45話 感じすぎるもの第2章 春へ落ちる
梓が現場へ到着した時には、雨が降っていた。
細い雨だった。
傘を差すほどではない。だが確実に身体を濡らしていく。髪へ染み込み、肩を伝い、舗装された遊歩道を黒く変色させている。
冷たい。
そう認識はできる。
だが、実感が薄かった。
梓は無意識に自分の指先を見た。
触覚。
転位侵界の代償。
失われ始めている。
雨粒が皮膚へ当たっているはずなのに、どこか遠い。
手袋を何枚も重ねた上から触れられているような感覚だった。
量子暗号札を取り出す。
指が少し遅れる。
掴んだつもりが滑る。
最近はそれが増えていた。
高峰がこちらへ歩いてくる。
スーツは濡れている。
だが表情はもっと重かった。
「来たか」
「状況は?」
高峰が川沿いを見た。
「現在確認できている被害者は十一名」
短く息を吐く。
「自殺未遂四名。錯乱状態七名」
そして続けた。
「全員、同じことを言う」
梓は視線を向ける。
規制線の向こう。
救急隊員に保護された若い男が泣いていた。
「終わる」
震えている。
「全部終わる」
別の女は笑っている。
だが目には涙が浮いていた。
「綺麗」
川を見ている。
「こんな景色初めて見た」
梓の眉が僅かに動く。
感情の方向が統一されていない。
恐怖。
歓喜。
懐かしさ。
喪失感。
全てが同時に発生している。
だが原因は同じだった。
風が吹く。
その瞬間だった。
桜の花びらが舞った。
高峰が視線を上げる。
「見えるか?」
「……見えます」
だが咲いていない。
周囲の桜並木は蕾のままだ。
それなのに見える。
花びらだけが。
風に流されている。
街灯の光を受けて。
雨粒の中を漂いながら。
異様に綺麗だった。
そして。
胸が締め付けられる。
悲しい。
理由もなく。
ただ終わる気がする。
何か大切なものが。
高峰が拳を握る。
「……くそ」
感情が引っ張られている。
梓はすぐ分かった。
「中和・復調」
量子暗号札が浮く。
青白い光。
空気が震える。
次の瞬間。
桜が消えた。
高峰が息を吐く。
「助かった」
「人格定義を再構築しました。…完全ではありませんが」
梓は周囲を見る。
空気そのものが侵食されている。
風。
匂い。
温度。
湿度。
景色。
それら全部を媒介にして精神へ入り込んでいる。
強い。
今までとは違う。
もっと静かで。
もっと深い。
人間側が自分から受け入れてしまう。
綺麗だから。
懐かしいから。
心地良いから。
だから気付かない。
気付いた時には沈んでいる。
その時だった。
川の向こう側に人影が現れた。
旅装束。
笠。
杖。
痩せた身体。
顔は見えない。
だが、その周囲だけ空気が異質だった。
春。
夏。
秋。
冬。
四季が同時に存在している。
桜の香り。
蝉の声。
枯葉の舞う音。
雪原の静けさ。
全てが混ざり合っていた。
高峰が息を呑む。
「……あれか」
人影がゆっくり顔を上げる。
《感じろ》
低い声だった。
《景色は消える》
《だから残せ》
その瞬間。
近くにいた警官の一人が膝をついた。
「嫌だ」
震えている。
「終わる」
涙を流している。
「終わる」
別の警官が突然笑い出す。
「綺麗だな」
川を見つめていた。
「こんな景色、初めて見た」
そして柵へ向かう。
飛び込もうとしている。
高峰が走る。
「止まれ!」
間一髪だった。
腕を掴む。
男は泣きながら笑っていた。
梓は旅装束の男を見る。
分かった。
残響は人間を殺したいわけではない。
景色を見せたいのだ。
忘れられないように。
残したいから。
だから感情を増幅する。
結果として人間が壊れる。
男が再び口を開く。
《旅は終わる》
雨が強くなる。
《だが》
風が吹く。
《景色は残る》
その瞬間。
梓は確信した。
この残響は。
ただ人を苦しめたいわけではない。
何かを残そうとしている。
強烈な執着を持って。
高峰が横へ並ぶ。
「分かったか」
梓は静かに頷く。
「ええ」
視線は旅装束の男へ向けられたままだった。
「あの人は……松尾芭蕉です」
高峰が息を呑む。
男は何も否定しない。
ただ静かに立っている。
雨の中で。
季節の境界に立ちながら。
そして。
松尾芭蕉は初めて笑った。
《残したい》
その言葉だけが。
異様に悲しく聞こえた。




