表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
PR
241/269

第45話 感じすぎるもの第2章 春へ落ちる

 梓が現場へ到着した時には、雨が降っていた。


 細い雨だった。


 傘を差すほどではない。だが確実に身体を濡らしていく。髪へ染み込み、肩を伝い、舗装された遊歩道を黒く変色させている。


 冷たい。


 そう認識はできる。


 だが、実感が薄かった。


 梓は無意識に自分の指先を見た。


 触覚。


 転位侵界の代償。


 失われ始めている。


 雨粒が皮膚へ当たっているはずなのに、どこか遠い。


 手袋を何枚も重ねた上から触れられているような感覚だった。


 量子暗号札を取り出す。


 指が少し遅れる。


 掴んだつもりが滑る。


 最近はそれが増えていた。


 高峰がこちらへ歩いてくる。


 スーツは濡れている。


 だが表情はもっと重かった。


「来たか」


「状況は?」


 高峰が川沿いを見た。


「現在確認できている被害者は十一名」


 短く息を吐く。


「自殺未遂四名。錯乱状態七名」


 そして続けた。


「全員、同じことを言う」


 梓は視線を向ける。


 規制線の向こう。


 救急隊員に保護された若い男が泣いていた。


「終わる」


 震えている。


「全部終わる」


 別の女は笑っている。


 だが目には涙が浮いていた。


「綺麗」


 川を見ている。


「こんな景色初めて見た」


 梓の眉が僅かに動く。


 感情の方向が統一されていない。


 恐怖。


 歓喜。


 懐かしさ。


 喪失感。


 全てが同時に発生している。


 だが原因は同じだった。


 風が吹く。


 その瞬間だった。


 桜の花びらが舞った。


 高峰が視線を上げる。


「見えるか?」


「……見えます」


 だが咲いていない。


 周囲の桜並木は蕾のままだ。


 それなのに見える。


 花びらだけが。


 風に流されている。


 街灯の光を受けて。


 雨粒の中を漂いながら。


 異様に綺麗だった。


 そして。


 胸が締め付けられる。


 悲しい。


 理由もなく。


 ただ終わる気がする。


 何か大切なものが。


 高峰が拳を握る。


「……くそ」


 感情が引っ張られている。


 梓はすぐ分かった。


「中和・復調」


 量子暗号札が浮く。


 青白い光。


 空気が震える。


 次の瞬間。


 桜が消えた。


 高峰が息を吐く。


「助かった」


「人格定義を再構築しました。…完全ではありませんが」


 梓は周囲を見る。


 空気そのものが侵食されている。


 風。


 匂い。


 温度。


 湿度。


 景色。


 それら全部を媒介にして精神へ入り込んでいる。


 強い。


 今までとは違う。


 もっと静かで。


 もっと深い。


 人間側が自分から受け入れてしまう。


 綺麗だから。


 懐かしいから。


 心地良いから。


 だから気付かない。


 気付いた時には沈んでいる。


 その時だった。


 川の向こう側に人影が現れた。


 旅装束。


 笠。


 杖。


 痩せた身体。


 顔は見えない。


 だが、その周囲だけ空気が異質だった。


 春。


 夏。


 秋。


 冬。


 四季が同時に存在している。


 桜の香り。


 蝉の声。


 枯葉の舞う音。


 雪原の静けさ。


 全てが混ざり合っていた。


 高峰が息を呑む。


「……あれか」


 人影がゆっくり顔を上げる。


《感じろ》


 低い声だった。


《景色は消える》


《だから残せ》


 その瞬間。


 近くにいた警官の一人が膝をついた。


「嫌だ」


 震えている。


「終わる」


 涙を流している。


「終わる」


 別の警官が突然笑い出す。


「綺麗だな」


 川を見つめていた。


「こんな景色、初めて見た」


 そして柵へ向かう。


 飛び込もうとしている。


 高峰が走る。


「止まれ!」


 間一髪だった。


 腕を掴む。


 男は泣きながら笑っていた。


 梓は旅装束の男を見る。


 分かった。


 残響は人間を殺したいわけではない。


 景色を見せたいのだ。


 忘れられないように。


 残したいから。


 だから感情を増幅する。


 結果として人間が壊れる。


 男が再び口を開く。


《旅は終わる》


 雨が強くなる。


《だが》


 風が吹く。


《景色は残る》


 その瞬間。


 梓は確信した。


 この残響は。


 ただ人を苦しめたいわけではない。


 何かを残そうとしている。


 強烈な執着を持って。


 高峰が横へ並ぶ。


「分かったか」


 梓は静かに頷く。


「ええ」


 視線は旅装束の男へ向けられたままだった。


「あの人は……松尾芭蕉です」


 高峰が息を呑む。


 男は何も否定しない。


 ただ静かに立っている。


 雨の中で。


 季節の境界に立ちながら。


 そして。


 松尾芭蕉は初めて笑った。


《残したい》


 その言葉だけが。


 異様に悲しく聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ