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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第45話 感じすぎるもの第3章 残された景色

 雨は止まなかった。


 むしろ少し強くなっていた。


 川面へ無数の波紋が広がる。


 街灯の光が揺れる。


 その揺らぎさえ、どこか懐かしく見えた。


 高峰は視線を逸らした。


 見続けてはいけない。


 理屈では分かる。


 だが。


 景色が綺麗だった。


 あまりにも。


 警察官として現場を見ているはずなのに、別の感情が入り込んでくる。


 子供の頃の夕暮れ。


 卒業式。


 引っ越しの日。


 何故か思い出す。


 関係のない記憶ばかりを。


「……まずいな」


 高峰が呟く。


 自覚があった。


 引っ張られている。


 梓も分かっていた。


 高峰は既に侵食を受けている。


 今はまだ軽度。


 だが時間の問題だった。


「高峰さん」


「何だ」


 梓は量子暗号札を三枚取り出した。


 指先が震えている。


 最近は札を持つだけでも集中が必要になっていた。


 それでも構わない。


 やるべきことは決まっている。


 「遮断・断界」


 札が高峰の周囲を巡る。


 青白い光。


 薄い膜のような結界が形成される。


 高峰が眉を寄せる。


「これは」


「応急処置です」


 梓は松尾芭蕉を見る。


 旅装束の男は動かない。


 ただそこに立っている。


 雨の中で。


 四季の境界で。


 終わり続ける景色の中心で。


「長くは持ちません」


 高峰が顔を上げる。


「何をするつもりだ」


 梓は答えない。


 代わりに八鍵を握った。


 黒い棒状の祓具。


 祝詞が刻まれた表面を指先でなぞる。


 感触は曖昧だった。


 触れている実感が薄い。


 それでも握る。


 離さない。


 まだ。


 失うわけにはいかない。


「真名井」


 高峰が呼ぶ。


 梓は静かに言った。


「あの残響は外から修正できません」


「……」


「中心へ行きます」


 高峰の表情が変わる。


 危険だと分かっている。


 だが止められない。


 梓自身も理解している。


 松尾芭蕉は景色そのものへ溶け込んでいる。


 無念と願いへ辿り着かなければ修正できない。


 だから。


 中へ入るしかない。


 梓は八鍵をかざした。


 八鍵の表面に刻まれた祝詞が淡く発光する。


 一本、また一本と文字列が浮かび上がり、梓の足元から円環状に広がっていく。


 雨粒がその光へ触れた瞬間、音もなく消えた。


 梓は目を閉じる。


 深く息を吸う。


 胸の奥で軋むような違和感。


 転位侵界の負荷が確実に増している。


 それでも止まれない。


「座標固定」


 静かな詠唱。


「残響深度、第三層」


 光が強まる。


 高峰は思わず目を細めた。


 梓の周囲だけ現実との境界が薄くなっていく。


「接続開始」


 最後の言葉と同時に、八鍵が低く唸った。


 空気が軋む。


 次の瞬間。


 景色が裂けた。


 雨が止まる。


 風も止まる。


 川も消える。


 世界が紙のように剥がれていく。


 その向こう側。


 別の景色が見えた。


 高峰が息を呑む。


 春だった。


 桜が咲いている。


 だが同時に蝉が鳴いている。


 紅葉も舞っている。


 雪も降っている。


 全ての季節が一つの空間へ押し込められていた。


 異常だった。


 現実ではあり得ない。


 だが。


 不思議と美しい。


 だから怖い。


 梓は振り返らない。


 高峰へ背を向けたまま言う。


「結界が消えたら離れてください」


「おい」


「今回は」


 少しだけ間が空く。


「私も長く持つ保証がありません」


 高峰が何か言おうとする。


 だが言葉にならない。


 梓はもう歩き始めていた。


 裂け目の向こうへ。


 残響空間へ。


 その背中は小さかった。


 以前よりも。


 少しだけ。


 頼りなく見えた。


 高峰は初めて思う。


 転位侵界は。


 本当に人間へ戻れる技術なのか。


 それとも。


 少しずつ人間を別の何かへ変えていくのか。


 答えは無かった。


 梓の姿が裂け目の向こうへ消える。


 空間が閉じる。


 静寂。


 雨だけが戻る。


 高峰は一人残された。


 結界の内側で。


 松尾芭蕉の影響を押し返しながら。


 そして。


 梓は歩いていた。


 残響空間の中を。


 桜吹雪の中を。


 雪の中を。


 夏草の中を。


 秋雨の中を。


 全てが同時に存在する世界。


 景色だけが積み重なっている。


 人はいない。


 街もない。


 ただ旅だけが残っていた。


 歩く。


 歩く。


 歩く。


 その先で。


 一人の男が座っていた。


 笠を膝へ置いている。


 痩せた身体。


 疲れた顔。


 そして。


 どこか寂しそうな目。


 松尾芭蕉だった。


 男は振り向かない。


 ただ遠くを見ている。


 消えていく景色を。


 終わり続ける旅を。


 その背中を見た瞬間。


 梓は理解した。


 この残響は怒りではない。


 憎しみでもない。


 もっと静かなものだった。


 終わってしまうことへの恐怖。


 忘れられてしまうことへの恐怖。


 残せないことへの恐怖。


 だから。


 景色を閉じ込めた。


 永遠に消えないように。


 男が小さく呟く。


《旅は終わる》


 桜が散る。


 雪が溶ける。


 蝉の声が消える。


 紅葉が崩れる。


 全てが終わっていく。


 それでも男は見ていた。


 終わりゆく景色を。


 まるで。


 それを忘れたくないみたいに。


 梓は松尾芭蕉の隣まで歩いた。


 男は振り向かない。


 ただ景色を見ている。


 春が散り。


 夏が終わり。


 秋が枯れ。


 冬が溶ける。


 それが何度も繰り返されていた。


 終わる。


 終わる。


 終わる。


 全てが。


 何度でも。


 その光景を見ているだけで胸が苦しくなる。


 失いたくない。


 消えてほしくない。


 そんな感情が自然に湧いてくる。


 温覚鬼。


 感じる鬼。


 その本質が分かる。


 これは感情を押し付ける残響ではない。


 共感させる残響だった。


 松尾芭蕉が見ていた景色を。


 松尾芭蕉が抱いた感情を。


 そのまま相手へ流し込む。


 だから人は壊れる。


 感受性が強すぎる。


 抱えきれない。


 人間は他人の人生を背負えるようにはできていない。


 松尾芭蕉が口を開く。


《残ると思った》


 静かな声だった。


《書けば》


 風が吹く。


 桜が舞う。


《残ると思った》


 遠くで蝉が鳴く。


《歩けば》


 紅葉が崩れる。


《残ると思った》


 雪が降る。


 景色が変わる。


 次々と。


 終わっていく。


 男はその全てを見ている。


 何百回も。


 何千回も。


 そして梓は気付く。


 ここにある景色は。


 全て本物だった。


 松尾芭蕉が見た景色。


 旅の途中で出会ったもの。


 美しいと思ったもの。


 忘れたくなかったもの。


 だから残った。


 残ってしまった。


《だが》


 男の声が震える。


《終わる》


 初めてだった。


 感情が見えたのは。


 悲しみだった。


《どれも》


《終わる》


 春も。


 夏も。


 秋も。


 冬も。


 旅も。


 人生も。


 全て。


 終わる。


 梓は黙って聞いていた。


 今は理解する時間だった。


 男の無念を。


 男の願いを。


 そのためにここへ来た。


 松尾芭蕉が空を見上げる。


《旅は終わる》


 その言葉が。


 今までと違って聞こえた。


 呪いではない。


 受け入れられなかった事実だった。


 旅人にとって。


 旅が終わることは死と同じだ。


 歩けなくなる。


 見られなくなる。


 出会えなくなる。


 だから怖かった。


 だから認められなかった。


 梓は静かに言った。


「それが無念ですか」


 男が少しだけ笑う。


 寂しい笑みだった。


《旅は終わる》


 繰り返す。


 何度も。


 何度も。


 その言葉だけを。


 そして。


 梓は理解した。


 無念。


 旅は終わる。


 それが松尾芭蕉の傷だった。


 だが。


 それだけではない。


 まだ足りない。


 願いがある。


 残響は無念だけでは生まれない。


 執着がある。


 残したかったものがある。


 梓は周囲を見る。


 景色。


 景色。


 景色。


 どこを見ても景色だった。


 旅館。


 山道。


 川。


 橋。


 夕焼け。


 朝霧。


 雪原。


 桜。


 全てが保存されている。


 まるで標本みたいに。


 終わることを拒否して。


 そこで。


 梓はようやく気付いた。


 松尾芭蕉は景色を保存したかったのではない。


 違う。


 もっと根本だった。


「残したかったんですね」


 男が初めて振り向く。


 目が合う。


 深い悲しみを抱えた目だった。


「景色を」


 松尾芭蕉が静かに目を閉じる。


《そうだ》


 初めて肯定した。


《残したかった》


 その声は。


 どこか救われたようにも聞こえた。


 梓は頷く。


 無念。


 旅は終わる。


 願い。


 景色を残したい。


 あと一つ。


 そこへ届けば終わる。


 その時だった。


 空間の奥で。


 何かが揺れた。


 四季が乱れる。


 風向きが変わる。


 景色がざわめく。


 まるで。


 誰かが無理やりこの空間へ侵入しようとしているみたいに。


 梓の表情が変わる。


 嫌な予感がした。


 松尾芭蕉も気付いている。


 男がゆっくり空を見上げる。


 そして。


 遠くで。


 黒い亀裂が開いた。


 残響空間そのものが悲鳴を上げる。


 次の瞬間。


 梓は理解した。


 誰が来たのかを。

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