第45話 感じすぎるもの 第1章 春の匂い
最初の通報は、川沿いの遊歩道からだった。
夕方だった。まだ日が沈みきる前で、川面には薄い橙色の光が残っていた。冬の終わりに近い時期だったが、風は冷たく、桜並木の枝にはまだ蕾もほとんど見えない。散歩をする老人が数人、犬を連れた女が一人、自転車で通り過ぎる高校生が二人。特別なものは何もない。どこにでもある、季節の変わり目の夕方だった。
だが、通報者は電話口で同じことを繰り返していた。
「春の匂いがするんです」
警察の通信担当は、最初それを意味のある情報として扱えなかった。異臭騒ぎか、体調不良か、薬物か。そう聞き返したが、通報者は違うと言った。
「違うんです。春なんです。ここだけ、春なんです」
その数分後、同じ場所で人が倒れた。
倒れたのは、近くの会社に勤める四十代の男だった。仕事帰りに遊歩道を歩いていた。持っていた鞄は地面へ落ち、中身が少し散らばっていた。財布、社員証、折り畳み傘、コンビニのレシート。争った跡はない。外傷もない。ただ、男は川沿いの桜の木の下に膝をつき、両手で顔を覆って泣いていたという。
最初に声をかけたのは犬を連れた女だった。
「大丈夫ですか」
男は返事をしなかった。
肩を震わせていた。
女がもう一度声をかけると、男は顔を上げた。目は真っ赤だった。鼻水も出ていた。恥ずかしがる様子はない。誰かに見られていることも分かっていないようだった。ただ、遠くを見ていた。川の向こうではない。桜の木でもない。もっと別の、ここにはない何かを見ている顔だった。
「終わる」
男はそう言った。
「何がですか」
「全部、終わる」
女は怖くなり、少し下がった。
その瞬間、男は笑った。
泣きながら笑った。
「綺麗だな」
そう言って、川へ向かって歩き出した。
女は止めようとした。だが間に合わなかった。男は柵を越えたわけではない。飛び込んだわけでもない。ただ、遊歩道から一歩踏み出した。そこは本来なら舗装路の端だった。柵があるはずだった。だが男は何もない場所を歩くように、そのまま川へ落ちた。
柵はあった。
後で確認しても、壊れていなかった。
監視カメラにも柵は映っている。
だが男だけが、その柵を認識していなかった。
いや、違う。
男の映像を見る限り、彼は柵を避けてもいない。越えてもいない。まるで、柵そのものが彼にとって存在していなかったかのように歩いている。水面に落ちた時も抵抗はしなかった。浮き上がろうともしなかった。ただ仰向けのまま、空を見ていた。
救助された時、まだ息はあった。
だが男はずっと同じことを言っていた。
「景色が終わる」
「残さないと」
「行かないと」
「でも終わる」
意味は分からなかった。
だが、それだけなら精神錯乱として処理できたかもしれない。
問題は、現場にいた者たちが次々と異常を訴え始めたことだった。
犬を連れた女は、帰宅後に部屋の窓を開けたまま泣き続けた。隣人が心配して訪ねると、彼女は春の匂いが部屋の中に入ってくると言った。外は冬の夜だった。冷たい風が吹いていた。だが彼女は、桜が散る音が聞こえると言い続けた。
高校生の一人は、自転車で帰る途中、突然道路脇に座り込んだ。理由を聞かれると、夕焼けが悲しすぎると答えた。もう家に帰れない気がすると言った。実際には家まで五分の距離だった。だが彼は一歩も動けなくなった。空の色が変わるたびに泣き、やがて過呼吸を起こして搬送された。
近くの老人は、翌朝、自宅の庭で倒れているのを発見された。意識はあった。だが、庭の石を撫でながら「旅が終わった」と呟いていた。家族が抱き起こそうとすると、老人は子供のように暴れた。まだ見ていない景色がある。まだ行っていない場所がある。なのに足が動かない。だから終わりだ。そう言って、泣きながら土を食べようとした。
異常は、季節に関係していた。
ある者は、突然夏の匂いを感じた。汗の臭い、蝉の声、熱いアスファルト。実際には雪が降るほど寒い日だったが、その者は暑いと叫びながら服を脱ぎ、外へ飛び出した。
ある者は、秋の夕暮れに囚われた。何を見ても終わりに見える。子供の笑い声も、電車の音も、食卓の湯気も、全部が最後の景色に見える。耐えられず、カーテンを閉め、電気を消して震えていた。
ある者は、冬を見た。音のない雪原。誰もいない道。冷え切った橋。身体は暖房の効いた部屋にいるのに、心だけが雪の中へ置き去りにされている。そう言って、布団の中で動かなくなった。
被害者たちに共通していたのは、景色だった。
匂い。
風。
音。
光。
誰もが何かを感じすぎていた。
普通なら通り過ぎるだけのものが、胸の奥へ突き刺さる。夕焼けを見るだけで泣く。雨音を聞くだけで死にたくなる。風が吹くだけで、どこかへ行かなければならない気がする。道端の枯葉を見ただけで、自分の人生が終わったと確信する。
情緒が、外気に支配されている。
そう表現するしかなかった。
高峰修一は、最初の報告を読んだ時点で梓へ連絡した。
だが今回は、いつもより躊躇った。
梓は転位侵界の代償で痛覚を失っている。いや、痛覚だけではない。高峰は最近の梓を見ていて、別の違和感も感じていた。傷に気づくのが遅い。手を強く握りすぎる。ペンを持つ力加減が狂う。熱い茶を持っても表情が変わらない。本人は気をつけていますと言うが、それは注意で補える問題ではない。
それでも、連絡しないわけにはいかなかった。
温度、季節、感情。
どれも残響案件の可能性が高い。
梓は電話の向こうで、しばらく黙っていた。
『現場は』
高峰が場所を告げる。
『分かりました。向かいます』
「すまん…無理するなよ」
そう言ってから、高峰は自分でも空々しいと思った。
無理をしないで済む案件なら、最初から梓へ連絡していない。
梓は少しだけ間を置いた。
『今回は、少し嫌な感じがします』
「どういう意味だ?」
『感情そのものではなく、感情を生む環境を変えています。空気、温度、匂い、景色。そこから入ってくるなら、遮断しても遅れる可能性があります』
高峰は川沿いの現場を見た。
夕方の光はもう消え、夜になっていた。規制線の向こうで、川は黒く流れている。街灯の下には、散ったはずのない桜の花びらが数枚落ちていた。
高峰はそれを見て、息を止めた。
桜はまだ咲いていない。
咲くはずがない。
だが、足元に落ちているそれは確かに桜の花びらに見えた。
拾おうとして、やめた。
その時、風が吹いた。
冷たい風だった。
なのに、そこに春の匂いが混じっていた。
甘く、薄く、どこか寂しい匂い。
その瞬間、高峰の胸の奥に、理由のない悲しみが落ちた。
懐かしい。
そう思った。
何が懐かしいのか分からない。
だが、もう二度と戻れない場所を思い出した気がした。
高峰はすぐに後退した。
だが遅かった。
耳元で、誰かが囁いた。
《感じろ》
川の向こう側。
まだ咲かない桜の下に、旅装束の男が立っていた。
笠をかぶり、杖を持っている。
顔は見えない。
だが、その周囲だけが妙に美しかった。
夜の川。
冷たい風。
咲かない桜。
その全てが、泣きたくなるほど整っていた。
高峰は理解した。
美しさは、人を救うとは限らない。
時には、殺す。




