第44話 空になる器 第5章 完成した器
転位室は静かだった。
落合陽菜が消えたあとも、誰も動かなかった。白い床の上には、割れた仮面だけが残されている。半分に裂けた白い面。その縁には黒い染みが付着していたが、それも少しずつ薄れていった。黒い粒子も、血も、何も残らない。
存在そのものが回収された以上、現実側へ固定できる痕跡はない。
最初から、誰もいなかったみたいだった。
構成員の一人がゆっくりと仮面を拾い上げる。
軽かった。
妙に軽い。
まるで中身だけが先に抜け落ちて、外側だけが残った殻だった。
その様子を愛音はぼんやり見ていた。
胸元の翡翠が脈打っている。
以前とは違う。
深い。
重い。
心臓の音に似ていた。
けれど違う。
身体の中から鳴っているわけじゃない。
もっと奥。
もっと深い場所。
身体の向こう側から響いてくる音が、骨を伝っているみたいだった。
愛音は胸へ手を当てる。
「……変」
小さく呟いた。
感覚がおかしい。
今まで何度も吸収してきた。
骨鬼。
血鬼。
肉鬼。
皮鬼。
夢鬼。
影鬼。
鏡鬼。
虚鬼。
そのたびに感じていたものがある。
熱だった。
胸元の翡翠が脈打つたび、身体の深い場所へ何かが流れ込んでくる感覚。
骨鬼の時は、身体の中心に一本芯が通った。
血鬼の時は、冷たい身体の奥へ熱が流れた。
肉鬼は重かった。
皮鬼は、何かに守られている感覚だった。
夢鬼は眠気に似ていた。
影鬼は、自分の後ろに誰かが立っているようだった。
鏡鬼は、自分という輪郭が濃くなった。
そして虚鬼。
今までとは違う。
身体じゃない。
もっと深い。
存在そのものへ流れ込んでいる。
空洞へ液体が流れ込み、欠けていた場所が埋まっていく。
そんな感覚だった。
苦しくない。
むしろ逆だった。
気持ちよかった。
胸の奥が甘く痺れる。
身体が軽くなる。
なのに何かが固定されていく。
浮いているのに、沈んでいる。
ふわふわしているのに、落ち着く。
矛盾していた。
嬉しいとも違う。
楽しいとも違う。
ただ。
正しい位置へ何かが収まっていく。
それだけが分かった。
愛音は胸を押さえた。
少しだけ笑う。
「……好き」
ぽつりと漏れた。
構成員たちが顔を上げる。
愛音自身も、自分がなぜそう言ったのか分かっていなかった。
ただ。
もっと欲しい、と思った。
もっと埋めたい。
もっと近づきたい。
主様へ。
もっと。
もっと。
もっと。
その感情は愛情に似ていた。
だが違う。
空腹にも似ていた。
だが、それとも違う。
欠けているものを埋めた時にだけ感じる、本能だった。
主は何も言わない。
ただ愛音を見ていた。
構成員たちも黙っている。
その中で、一人だけ顔色を変えている男がいた。
祀社に長くいる老人だった。
白髪交じりの男は、小さく呟いた。
「……依存している」
誰にも聞こえないほど小さく。
「器じゃない……これは……」
言葉は途中で止まった。
主が視線だけを向けたからだった。
男は慌てて口を閉じる。
静寂が落ちる。
主はゆっくりと奥を見た。
転位室のさらに奥。
今まで閉じられていた巨大な扉。
黒い扉だった。
装飾はない。
ただ存在しているだけで、空気を重くする。
愛音も、そちらを見る。
扉が開いていく。
ゆっくり。
重い音。
暗い。
向こう側が見えない。
光が届いていないわけではなかった。
最初から、そこに光という概念が存在していないみたいだった。
《違う》
主が言った。
《ここからだ》
愛音の瞳が細くなる。
感じていた。
今までの鬼とは違うものを。
もっと重い。
もっと深い。
もっと近い。
《第一層》
《器》
《第二層》
《精神》
《全接続完了》
静かな声が落ちる。
《これより第三層へ移行する》
構成員の一人が震える。
「……核」
誰も続けない。
だが全員理解していた。
ここから先は違う。
鎖鬼。
門鬼。
秤鬼。
核鬼。
今まで集めていたものとは根本が違う。
肉体でもない。
精神でもない。
存在そのものを成立させる中心。
《第一層と第二層がなければ崩壊する》
《人格は消える》
《肉体は耐えられない》
《存在そのものが分解される》
《だから待った》
《だから今、始める》
愛音は暗闇を見ていた。
そして、少し笑った。
「主様」
《何だ》
「次、取ってくる」
数秒だけ沈黙。
それから。
《そうだ》
主が答えた。
愛音は嬉しそうに笑った。
その瞬間だった。
胸元の翡翠が脈打つ。
一回。
二回。
三回。
今までより深く。
今までより重く。
まるで身体の向こう側で、新しい心臓が動き始めたみたいに。
第三層。
核。
まだ何も始まっていない。
だが暗闇の奥で。
確かに、何かが待っていた。




