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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第44話 空になる器 第5章 完成した器

 転位室は静かだった。


 落合陽菜が消えたあとも、誰も動かなかった。白い床の上には、割れた仮面だけが残されている。半分に裂けた白い面。その縁には黒い染みが付着していたが、それも少しずつ薄れていった。黒い粒子も、血も、何も残らない。


 存在そのものが回収された以上、現実側へ固定できる痕跡はない。


 最初から、誰もいなかったみたいだった。


 構成員の一人がゆっくりと仮面を拾い上げる。


 軽かった。


 妙に軽い。


 まるで中身だけが先に抜け落ちて、外側だけが残った殻だった。


 その様子を愛音はぼんやり見ていた。


 胸元の翡翠が脈打っている。


 以前とは違う。


 深い。


 重い。


 心臓の音に似ていた。


 けれど違う。


 身体の中から鳴っているわけじゃない。


 もっと奥。


 もっと深い場所。


 身体の向こう側から響いてくる音が、骨を伝っているみたいだった。


 愛音は胸へ手を当てる。


「……変」


 小さく呟いた。


 感覚がおかしい。


 今まで何度も吸収してきた。


 骨鬼。


 血鬼。


 肉鬼。


 皮鬼。


 夢鬼。


 影鬼。


 鏡鬼。


 虚鬼。


 そのたびに感じていたものがある。


 熱だった。


 胸元の翡翠が脈打つたび、身体の深い場所へ何かが流れ込んでくる感覚。


 骨鬼の時は、身体の中心に一本芯が通った。


 血鬼の時は、冷たい身体の奥へ熱が流れた。


 肉鬼は重かった。


 皮鬼は、何かに守られている感覚だった。


 夢鬼は眠気に似ていた。


 影鬼は、自分の後ろに誰かが立っているようだった。


 鏡鬼は、自分という輪郭が濃くなった。


 そして虚鬼。


 今までとは違う。


 身体じゃない。


 もっと深い。


 存在そのものへ流れ込んでいる。


 空洞へ液体が流れ込み、欠けていた場所が埋まっていく。


 そんな感覚だった。


 苦しくない。


 むしろ逆だった。


 気持ちよかった。


 胸の奥が甘く痺れる。


 身体が軽くなる。


 なのに何かが固定されていく。


 浮いているのに、沈んでいる。


 ふわふわしているのに、落ち着く。


 矛盾していた。


 嬉しいとも違う。


 楽しいとも違う。


 ただ。


 正しい位置へ何かが収まっていく。


 それだけが分かった。


 愛音は胸を押さえた。


 少しだけ笑う。


「……好き」


 ぽつりと漏れた。


 構成員たちが顔を上げる。


 愛音自身も、自分がなぜそう言ったのか分かっていなかった。


 ただ。


 もっと欲しい、と思った。


 もっと埋めたい。


 もっと近づきたい。


 主様へ。


 もっと。


 もっと。


 もっと。


 その感情は愛情に似ていた。


 だが違う。


 空腹にも似ていた。


 だが、それとも違う。


 欠けているものを埋めた時にだけ感じる、本能だった。


 主は何も言わない。


 ただ愛音を見ていた。


 構成員たちも黙っている。


 その中で、一人だけ顔色を変えている男がいた。


 祀社に長くいる老人だった。


 白髪交じりの男は、小さく呟いた。


「……依存している」


 誰にも聞こえないほど小さく。


「器じゃない……これは……」


 言葉は途中で止まった。


 主が視線だけを向けたからだった。


 男は慌てて口を閉じる。


 静寂が落ちる。


 主はゆっくりと奥を見た。


 転位室のさらに奥。


 今まで閉じられていた巨大な扉。


 黒い扉だった。


 装飾はない。


 ただ存在しているだけで、空気を重くする。


 愛音も、そちらを見る。


 扉が開いていく。


 ゆっくり。


 重い音。


 暗い。


 向こう側が見えない。


 光が届いていないわけではなかった。


 最初から、そこに光という概念が存在していないみたいだった。


《違う》


 主が言った。


《ここからだ》


 愛音の瞳が細くなる。


 感じていた。


 今までの鬼とは違うものを。


 もっと重い。


 もっと深い。


 もっと近い。


《第一層》


《器》


《第二層》


《精神》


《全接続完了》


 静かな声が落ちる。


《これより第三層へ移行する》


 構成員の一人が震える。


「……核」


 誰も続けない。


 だが全員理解していた。


 ここから先は違う。


 鎖鬼。


 門鬼。


 秤鬼。


 核鬼。


 今まで集めていたものとは根本が違う。


 肉体でもない。


 精神でもない。


 存在そのものを成立させる中心。


《第一層と第二層がなければ崩壊する》


《人格は消える》


《肉体は耐えられない》


《存在そのものが分解される》


《だから待った》


《だから今、始める》


 愛音は暗闇を見ていた。


 そして、少し笑った。


「主様」


《何だ》


「次、取ってくる」


 数秒だけ沈黙。


 それから。


《そうだ》


 主が答えた。


 愛音は嬉しそうに笑った。


 その瞬間だった。


 胸元の翡翠が脈打つ。


 一回。


 二回。


 三回。


 今までより深く。


 今までより重く。


 まるで身体の向こう側で、新しい心臓が動き始めたみたいに。


 第三層。


 核。


 まだ何も始まっていない。


 だが暗闇の奥で。


 確かに、何かが待っていた。

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