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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第44話 空になる器 第4章 使い捨ての帰還

 帰還は、静かだった。


 空間が裂ける感覚だけがある。音はない。だが境界がずれ、現実側へ押し戻される瞬間、陽菜の身体が大きく揺れた。


 祀社の転位室。


 白い床。


 白い壁。


 無菌室に似た空間。


 その中央へ、落合陽菜は膝から崩れ落ちた。


 血が広がる。


 黒い服は裂け、左腕は肩から消えている。脇腹も深く抉れ、骨が見えていた。呼吸のたびに血泡が漏れる。普通の人間なら、とうに死んでいる損傷だった。


 だが。


 陽菜はまだ動いていた。


 胸元だけが、不気味に脈打っている。


 宮本武蔵。


 虚鬼。


 “無”への遷移。


 致命を空へ逃がす認識構造。


 それが今、陽菜の内部で暴れていた。


 構成員たちが周囲を囲む。


 だが近づかない。


 不用意に接触すれば、何が起きるか分からないからだ。


 陽菜の身体が、一瞬だけ透ける。


 存在が薄れる。


 次の瞬間には戻る。


 固定できていない。


 人間と残響の境界が揺れている。


「……回収完了」


 陽菜が呟く。


 声は掠れていた。


「対象、宮本武蔵。虚鬼、内部へ固定中」


 事務的な報告だった。


 痛みを訴えない。


 助けも求めない。


 それが、この寄生体に与えられた人格構造だった。


 転位室の奥。


 暗闇の向こうから、主が現れる。


 陽菜は、その姿を見ると反射的に頭を下げた。


「帰還しました」


《損耗率》


「肉体維持限界を超過。自己定義崩壊開始まで推定十一分」


 淡々としている。


 死の報告を、自分で読み上げているみたいだった。


《十分だ》


 主が答える。


《愛音を呼べ》


 構成員の一人が即座に動く。


 陽菜は、その言葉を聞いても表情を変えなかった。


 理解している。


 自分が、ここで終わることを。


 最初から、その予定だった。


 しばらくして。


 転位室の扉が開いた。


 愛音が入ってくる。


 裸足だった。


 黒いワンピース。


 胸元の翡翠は、まだ濁ったまま脈打っている。


 だが、その目は陽菜へ固定されていた。


「……それ?」


 小さく聞く。


 主が頷く。


《虚鬼》


 愛音が近づいてくる。


 ゆっくり。


 興味深そうに。


 陽菜を見下ろす。


 仮面は半分割れていた。


 その奥の顔は、血に濡れている。


 苦痛もある。


 恐怖もある。


 それでも、陽菜は笑っていた。


 役割を終えた安堵のように。


「持ってきました」


 愛音はしゃがみ込む。


 じっと陽菜を見る。


 観察している。


 人間を見る目ではない。


 器の状態を見る目。


「痛い?」


 陽菜は少しだけ考える。


「……はい」


 正直に答えた。


 愛音は首を傾げる。


「じゃあ、なんで来たの?」


「命令だからです」


 即答だった。


 愛音は、その返答を聞いて小さく笑う。


「へんなの」


 本気でそう思っている声だった。


 愛音には理解できない。


 命令で死ぬことも。


 役割のために壊れることも。


 主以外のために動く理由も。


 陽菜は、愛音を見上げる。


 翡翠が見える。


 内部で脈打つ六層。


 骨。


 血。


 肉。


 皮。


 夢。


 影。


 そして、そのさらに奥。


 底のない穴。


 陽菜は、武蔵との戦闘で一瞬だけ理解していた。


 愛音は、人間ではない。


 いや。


 人間として成立するには、内部が空虚すぎる。


 積み重なった数百年の記録。


 感情を持たない記憶。


 底の見えない深淵。


 あれは器だ。


 神を入れるための。


 陽菜は、少しだけ目を細める。


「愛音様」


「なに」


「私は、ちゃんとお役に立てましたか」


 その質問に、転位室の空気が少しだけ止まった。


 構成員たちは動かない。


 主も答えない。


 愛音だけが、陽菜を見る。


 じっと。


 長く。


 そして。


「うーん」


 少し考えてから。


「分かんない」


 と答えた。


 悪意はない。


 本当に分からないのだ。


 陽菜は、その返答を聞いて小さく笑う。


「そうですか」


 納得したみたいに。


 その瞬間だった。


 愛音の胸元で、翡翠が強く脈打つ。


 転位室の空気が重く沈む。


 陽菜の身体が震えた。


 内部の虚鬼が反応している。


 “無”へ逃げようとしている。


 存在が薄れる。


 輪郭が崩れる。


 愛音が立ち上がる。


「じゃあ、もらうね」


 構成員の一人が、大鎌を差し出す。


 漆黒の刃。


 愛音はそれを受け取る。


 陽菜は抵抗しない。


 できないのではない。


 その必要がないからだ。


 これが役割の終わり。


 使い捨ての帰結。


 愛音が大鎌を振り上げる。


 陽菜は最後に、主を見る。


 だが。


 主は、何も言わなかった。


 労いもない。


 評価もない。


 ただ、回収対象を見る目。


 それだけだった。


 陽菜は理解する。


 本当に、自分は部品だったのだと。


 次の瞬間。


 大鎌が振り下ろされた。


 音は小さい。


 肉を断つ感触だけが響く。


 陽菜の身体が裂ける。


 同時に、胸部から黒い光が溢れ出した。


 虚鬼。


 宮本武蔵。


 “無”への構造。


 それが一気に翡翠へ吸い込まれていく。


 愛音の身体が震える。


 空間が歪む。


 一瞬だけ、愛音の輪郭が消えた。


 存在が空へ滑る。


 だが次の瞬間には戻る。


 固定される。


 翡翠の色が、さらに深く濁った。


  陽菜の身体が崩れていく。


 灰ではない。


 黒い粒子。


 存在そのものが分解されていく。


 仮面が床へ落ちる。


 割れた白い破片。


 その奥に残っていた顔も、もう消えかけていた。


 愛音は、それを見下ろしている。


 興味半分。


 観察半分。


 人が壊れる瞬間を見る目ではない。


 器が役割を終える瞬間を見る目だった。


 陽菜の胸部から、なおも黒い光が漏れている。


 虚鬼。


 宮本武蔵。


 “無”へ逃げる構造。


 それが翡翠へ吸い込まれるたび、陽菜の存在が削れていく。


 自己定義。


 役割。


 命令。


 従属。


 祀社が移植した人格構造。


 そのすべてが、先に崩れていた。


 だからだった。


 最後に残った。


 本来、消えているはずのものが。


 陽菜の目が、急に見開かれる。


 呼吸が乱れる。


「……ぁ」


 声が漏れた。


 今までとは違う。


 機械みたいに整った発声ではない。


 感情が混じっている。


 恐怖。


 混乱。


 理解できないものを前にした、生身の人間の震え。


 愛音が首を傾げる。


「……?」


 陽菜が、自分の身体を見る。


 崩れている。


 腕が消えている。


 腹部も黒く欠け、内側が粒子になって剥がれている。


 そこで初めて。


 陽菜の顔が、完全に崩れた。


「いや……」


 小さな声。


 震えている。


「いや、いや……っ」


 後退ろうとする。


 だが脚が崩れる。


 床へ倒れる。


 血に濡れた手で床を掴む。


 その動きが、急に人間臭くなる。


 祀社が作った人格ではない。


 もっと古いもの。


 寄生される前。


 人間だった頃の人格。


 落合陽菜。


 本来の人格が、死の直前に浮き上がっていた。


「たすけ……」


 呼吸が乱れる。


 涙が溢れる。


 自分の身体が消えていく。


 その現実を、今さら理解してしまった。


「こわぃ……っ、やめて……!!」


 錯乱したように叫ぶ。


 床を引っ掻く。


 爪が剥がれる。


 それでも這おうとする。


 逃げようとしている。


 死から。


 消滅から。


「死にたく…ない……!!」


 その声が、転位室へ響いた。


 構成員たちは動かない。


 誰も助けない。


 主も見ているだけだった。


 愛音だけが、しゃがみ込む。


 じっと陽菜を見る。


 陽菜は涙で濡れた目を向ける。


「助け…て……っ」


 愛音は、その顔を見ていた。


 理解できないものを見るみたいに。


「なんで?」


 小さく聞く。


「なんで、そんな怖がるの?」


 陽菜は答えられない。


 呼吸が壊れている。


 消えていく。


 身体が。


 意識が。


 存在が。


「いやぁぁぁぁっ!!」


 絶叫。


 その瞬間、陽菜の顔が崩れた。


 黒い粒子になって。


 皮膚が剥がれ、目が砕け、口が裂ける。


 それでも。


 最後まで。


 陽菜は人間みたいに泣いていた。


「いや…だ……っ、しに…たくない…たすけ……っ!!」


 愛音は、その姿を見て。


 本当に不思議そうな顔をした。


 理解できない。


 どうして消えるのを怖がるのか。


 どうして泣くのか。


 どうして助けを求めるのか。


 愛音には分からない。


 だから。


 興味を失った。


 翡翠が最後に強く脈打つ。


 陽菜の絶叫が、途中で途切れる。


 次の瞬間。


 落合陽菜という存在は、完全に消えた。


 あとに残ったのは。


 白い仮面だけだった。


 転位室は静かだった。


 何事もなかったみたいに。


 愛音は、その仮面を見下ろす。


「終わった?」


《完了》


 主が答える。


 愛音は満足そうに頷く。


 だが。


 次の瞬間。


 愛音の姿が、一瞬だけ消えた。


 構成員たちの空気が凍る。


 すぐ戻る。


 だが。


 今、確かに。


 愛音は“空”へ滑った。


 虚鬼。


 宮本武蔵。


 その構造が、愛音の内部で動き始めていた。

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