第44話 空になる器 第4章 使い捨ての帰還
帰還は、静かだった。
空間が裂ける感覚だけがある。音はない。だが境界がずれ、現実側へ押し戻される瞬間、陽菜の身体が大きく揺れた。
祀社の転位室。
白い床。
白い壁。
無菌室に似た空間。
その中央へ、落合陽菜は膝から崩れ落ちた。
血が広がる。
黒い服は裂け、左腕は肩から消えている。脇腹も深く抉れ、骨が見えていた。呼吸のたびに血泡が漏れる。普通の人間なら、とうに死んでいる損傷だった。
だが。
陽菜はまだ動いていた。
胸元だけが、不気味に脈打っている。
宮本武蔵。
虚鬼。
“無”への遷移。
致命を空へ逃がす認識構造。
それが今、陽菜の内部で暴れていた。
構成員たちが周囲を囲む。
だが近づかない。
不用意に接触すれば、何が起きるか分からないからだ。
陽菜の身体が、一瞬だけ透ける。
存在が薄れる。
次の瞬間には戻る。
固定できていない。
人間と残響の境界が揺れている。
「……回収完了」
陽菜が呟く。
声は掠れていた。
「対象、宮本武蔵。虚鬼、内部へ固定中」
事務的な報告だった。
痛みを訴えない。
助けも求めない。
それが、この寄生体に与えられた人格構造だった。
転位室の奥。
暗闇の向こうから、主が現れる。
陽菜は、その姿を見ると反射的に頭を下げた。
「帰還しました」
《損耗率》
「肉体維持限界を超過。自己定義崩壊開始まで推定十一分」
淡々としている。
死の報告を、自分で読み上げているみたいだった。
《十分だ》
主が答える。
《愛音を呼べ》
構成員の一人が即座に動く。
陽菜は、その言葉を聞いても表情を変えなかった。
理解している。
自分が、ここで終わることを。
最初から、その予定だった。
しばらくして。
転位室の扉が開いた。
愛音が入ってくる。
裸足だった。
黒いワンピース。
胸元の翡翠は、まだ濁ったまま脈打っている。
だが、その目は陽菜へ固定されていた。
「……それ?」
小さく聞く。
主が頷く。
《虚鬼》
愛音が近づいてくる。
ゆっくり。
興味深そうに。
陽菜を見下ろす。
仮面は半分割れていた。
その奥の顔は、血に濡れている。
苦痛もある。
恐怖もある。
それでも、陽菜は笑っていた。
役割を終えた安堵のように。
「持ってきました」
愛音はしゃがみ込む。
じっと陽菜を見る。
観察している。
人間を見る目ではない。
器の状態を見る目。
「痛い?」
陽菜は少しだけ考える。
「……はい」
正直に答えた。
愛音は首を傾げる。
「じゃあ、なんで来たの?」
「命令だからです」
即答だった。
愛音は、その返答を聞いて小さく笑う。
「へんなの」
本気でそう思っている声だった。
愛音には理解できない。
命令で死ぬことも。
役割のために壊れることも。
主以外のために動く理由も。
陽菜は、愛音を見上げる。
翡翠が見える。
内部で脈打つ六層。
骨。
血。
肉。
皮。
夢。
影。
そして、そのさらに奥。
底のない穴。
陽菜は、武蔵との戦闘で一瞬だけ理解していた。
愛音は、人間ではない。
いや。
人間として成立するには、内部が空虚すぎる。
積み重なった数百年の記録。
感情を持たない記憶。
底の見えない深淵。
あれは器だ。
神を入れるための。
陽菜は、少しだけ目を細める。
「愛音様」
「なに」
「私は、ちゃんとお役に立てましたか」
その質問に、転位室の空気が少しだけ止まった。
構成員たちは動かない。
主も答えない。
愛音だけが、陽菜を見る。
じっと。
長く。
そして。
「うーん」
少し考えてから。
「分かんない」
と答えた。
悪意はない。
本当に分からないのだ。
陽菜は、その返答を聞いて小さく笑う。
「そうですか」
納得したみたいに。
その瞬間だった。
愛音の胸元で、翡翠が強く脈打つ。
転位室の空気が重く沈む。
陽菜の身体が震えた。
内部の虚鬼が反応している。
“無”へ逃げようとしている。
存在が薄れる。
輪郭が崩れる。
愛音が立ち上がる。
「じゃあ、もらうね」
構成員の一人が、大鎌を差し出す。
漆黒の刃。
愛音はそれを受け取る。
陽菜は抵抗しない。
できないのではない。
その必要がないからだ。
これが役割の終わり。
使い捨ての帰結。
愛音が大鎌を振り上げる。
陽菜は最後に、主を見る。
だが。
主は、何も言わなかった。
労いもない。
評価もない。
ただ、回収対象を見る目。
それだけだった。
陽菜は理解する。
本当に、自分は部品だったのだと。
次の瞬間。
大鎌が振り下ろされた。
音は小さい。
肉を断つ感触だけが響く。
陽菜の身体が裂ける。
同時に、胸部から黒い光が溢れ出した。
虚鬼。
宮本武蔵。
“無”への構造。
それが一気に翡翠へ吸い込まれていく。
愛音の身体が震える。
空間が歪む。
一瞬だけ、愛音の輪郭が消えた。
存在が空へ滑る。
だが次の瞬間には戻る。
固定される。
翡翠の色が、さらに深く濁った。
陽菜の身体が崩れていく。
灰ではない。
黒い粒子。
存在そのものが分解されていく。
仮面が床へ落ちる。
割れた白い破片。
その奥に残っていた顔も、もう消えかけていた。
愛音は、それを見下ろしている。
興味半分。
観察半分。
人が壊れる瞬間を見る目ではない。
器が役割を終える瞬間を見る目だった。
陽菜の胸部から、なおも黒い光が漏れている。
虚鬼。
宮本武蔵。
“無”へ逃げる構造。
それが翡翠へ吸い込まれるたび、陽菜の存在が削れていく。
自己定義。
役割。
命令。
従属。
祀社が移植した人格構造。
そのすべてが、先に崩れていた。
だからだった。
最後に残った。
本来、消えているはずのものが。
陽菜の目が、急に見開かれる。
呼吸が乱れる。
「……ぁ」
声が漏れた。
今までとは違う。
機械みたいに整った発声ではない。
感情が混じっている。
恐怖。
混乱。
理解できないものを前にした、生身の人間の震え。
愛音が首を傾げる。
「……?」
陽菜が、自分の身体を見る。
崩れている。
腕が消えている。
腹部も黒く欠け、内側が粒子になって剥がれている。
そこで初めて。
陽菜の顔が、完全に崩れた。
「いや……」
小さな声。
震えている。
「いや、いや……っ」
後退ろうとする。
だが脚が崩れる。
床へ倒れる。
血に濡れた手で床を掴む。
その動きが、急に人間臭くなる。
祀社が作った人格ではない。
もっと古いもの。
寄生される前。
人間だった頃の人格。
落合陽菜。
本来の人格が、死の直前に浮き上がっていた。
「たすけ……」
呼吸が乱れる。
涙が溢れる。
自分の身体が消えていく。
その現実を、今さら理解してしまった。
「こわぃ……っ、やめて……!!」
錯乱したように叫ぶ。
床を引っ掻く。
爪が剥がれる。
それでも這おうとする。
逃げようとしている。
死から。
消滅から。
「死にたく…ない……!!」
その声が、転位室へ響いた。
構成員たちは動かない。
誰も助けない。
主も見ているだけだった。
愛音だけが、しゃがみ込む。
じっと陽菜を見る。
陽菜は涙で濡れた目を向ける。
「助け…て……っ」
愛音は、その顔を見ていた。
理解できないものを見るみたいに。
「なんで?」
小さく聞く。
「なんで、そんな怖がるの?」
陽菜は答えられない。
呼吸が壊れている。
消えていく。
身体が。
意識が。
存在が。
「いやぁぁぁぁっ!!」
絶叫。
その瞬間、陽菜の顔が崩れた。
黒い粒子になって。
皮膚が剥がれ、目が砕け、口が裂ける。
それでも。
最後まで。
陽菜は人間みたいに泣いていた。
「いや…だ……っ、しに…たくない…たすけ……っ!!」
愛音は、その姿を見て。
本当に不思議そうな顔をした。
理解できない。
どうして消えるのを怖がるのか。
どうして泣くのか。
どうして助けを求めるのか。
愛音には分からない。
だから。
興味を失った。
翡翠が最後に強く脈打つ。
陽菜の絶叫が、途中で途切れる。
次の瞬間。
落合陽菜という存在は、完全に消えた。
あとに残ったのは。
白い仮面だけだった。
転位室は静かだった。
何事もなかったみたいに。
愛音は、その仮面を見下ろす。
「終わった?」
《完了》
主が答える。
愛音は満足そうに頷く。
だが。
次の瞬間。
愛音の姿が、一瞬だけ消えた。
構成員たちの空気が凍る。
すぐ戻る。
だが。
今、確かに。
愛音は“空”へ滑った。
虚鬼。
宮本武蔵。
その構造が、愛音の内部で動き始めていた。




