第44話 空になる器 第1章 避けたはずの刃
最初の異常は、防犯カメラに映っていた。
深夜二時過ぎ。
地方都市の商店街。人通りは少なく、シャッターの閉まった店が並んでいる。映像の端に、一人の男が映り込んでいた。
三十代くらい。
スーツ姿。
酔っているようには見えない。
歩き方も普通だった。
だが、交差点へ差しかかった瞬間、男の身体が急に揺れた。
避けた。
何もない空間を。
反射的に。
男は息を呑み、その場で振り返る。背後には誰もいない。車もない。音もない。だが、男の顔だけが強張っていく。
次の瞬間。
男の肩が裂けた。
何も触れていない。
なのに、シャツが斜めに裂け、血が噴き出した。
男が悲鳴を上げる。
さらに後ろへ下がる。
避ける。
また、何もない空間を。
そのたびに、傷が増える。
腕。
脇腹。
太腿。
見えない斬撃が、避けた先へ正確に走る。
男は混乱していた。
避けなければ。
そう思っている。
本能的に。
だが、避けるたびに切られる。
逃げても、逃げても。
“次に避ける場所”へ、先回りするように刃が来る。
最後、男は道路の中央で転倒した。
防犯カメラの映像では、そこで一瞬だけ何かが映る。
黒い影。
二本の刀。
立っているだけの男。
次の瞬間には消えている。
倒れた男の身体は、細かく裂けていた。
致命傷ではない。
どれも浅い。
だが数が異常だった。
皮膚だけを正確に斬られ続けたような傷。
男はその場で失血し、意識を失った。
それだけでは終わらなかった。
翌日から、似た事件が続いた。
路地で転倒した女子高生が、避けた方向へ頭を打ち、首を折った。
工事現場では、作業員が落下してきた資材を避けた瞬間、その先にあった鉄筋へ胸を貫かれた。
駅のホームでは、男が突然線路側へ飛び退き、進入してきた電車へ接触した。
共通しているのは、“避けた”ことだった。
事故ではない。
誰もが、何かを避けている。
見えていないはずの刃を。
そして、その行動だけが死へ繋がる。
警察は混乱した。
薬物反応なし。
精神疾患とも断定できない。
被害者たちは全員、「斬られる」と証言する。
だが、監視カメラには何も映らない。
何もない空間へ怯え、自ら死地へ飛び込んでいるようにしか見えない。
問題は、その異常が感染し始めたことだった。
目撃者が増える。
恐怖が共有される。
次第に、誰もいない場所へ反応する人間が増えていく。
避ける。
転ぶ。
ぶつかる。
死ぬ。
その連鎖が広がり始めていた。
ある高校では、廊下で一人の生徒が突然悲鳴を上げた。
「来る!」
叫びながら横へ飛ぶ。
そのまま窓ガラスへ突っ込んだ。
割れたガラスが首を裂く。
血が噴き出す。
周囲の生徒たちは凍りついた。
だが。
その中の一人が、急に後ろへ飛び退いた。
何かを避けるように。
次に別の一人。
さらにもう一人。
見えている。
“何か”が。
存在しないはずの斬撃が。
教師が止めようとした時には遅かった。
教室は半狂乱になっていた。
生徒たちは何もない空間を避け、机を倒し、窓へ突っ込み、壁へ頭を打ちつける。
まるで。
絶対に避けなければ死ぬ“何か”が見えているみたいに。
その頃には、既に残響空間が形成され始めていた。
薄い霧のような違和感が、街へ広がっている。
人の認識層。
判断。
危機回避。
そのもっと根本へ干渉している。
“避ける”という行為そのものが、死へ誘導される。
虚鬼となった残響。
極限時、“空”へ遷移する存在。
致命を避ける。
負荷を無へ流す。
だが、その構造が反転した時、人間は“存在しない致命”を感じ始める。
避けなければならない。
だが、避けた先にこそ死がある。
そして。
最悪なのは。
誰も、その斬撃を実際には受けていないということだった。
死因はすべて、自傷に近い事故。
飛び退き。
転倒。
衝突。
落下。
つまり、現実側の記録だけを見れば、“残響の痕跡が存在しない”。
警察は証明できない。
病院も理解できない。
ただ、原因不明の錯乱事故だけが増えていく。
夜。
その現場の一つとなった交差点に、一人の女が立っていた。
白い仮面。
黒い服。
雨に濡れている。
周囲には規制線が張られ、警官たちが慌ただしく動いている。だが誰も、その女を見ていない。認識阻害が掛かっている。
女は、ゆっくりと道路の中央を見る。
そこに。
“斬られた痕跡”だけが残っていた。
空間が薄く裂けている。
刀傷みたいに。
仮面の奥で、女の目が細くなる。
「……見つけた」
小さく呟く。
感情は薄い。
だが、声だけは人間らしい。
その身体の奥では、別の何かが静かに脈打っていた。
人間ではない。
だが、人間として振る舞うための構造。
女は空を見上げる。
雨の向こう。
見えない場所に、“斬撃”がある。
そして、その中心にいる。
空へ逃げ続ける残響が。
虚鬼なる残響が。




