第43話 離さない手 第5章 混ざり始めたもの
雨が降り始めていた。
最初は細かった。
だが時間が経つにつれ、静かに、公園全体を濡らしていく。
零域・断絶によって焼かれた地面は黒く焦げ、円形に抉れていた。遊具は半ば溶けたように歪み、木々の表面には紫電が走った痕が残っている。
掴鬼の気配は、もう無い。
拘束も消えていた。
遠くでは救急隊のサイレンが近づいている。巻き込まれた一般人たちは各所で倒れていたが、掴み合っていた腕は離れている。泣き崩れる者もいた。呆然と立ち尽くす者もいた。
だが、全員の表情に共通していたのは、“何をしていたのか分からない”という混乱だった。
高峰が現場へ駆け込んでくる。
「真名井っ!」
梓は返事をしなかった。
視線は、水谷へ向いていた。
地面に倒れている。
全身が血で濡れていた。
右肩は潰れ、呼吸も浅い。普通なら、とっくに意識を失って死んでいてもおかしくない状態だった。
それでも。
最後まで、自分を庇っていた。
梓は理解できなかった。
なぜ。
思想は対立している。
嫌われてもいる。
蘆屋道満の時から、互いに協力関係ですらない。
それなのに。
水谷は、命を投げるみたいに自分を守った。
しかも。
あの時。
別人の声が混ざっていた。
梓は水谷の傍へ膝をつく。
「……水谷さん」
呼吸を確認する。
生きている。
だが危険だった。
梓は札を取り出す。
「応急処置を——」
その瞬間。
背後で、足音が止まった。
複数。
気配に無駄がない。
梓が振り返る。
黒いスーツ姿の男たちが三人立っていた。
全員、黒手袋。
感情の薄い顔。
高峰が即座に警戒する。
「誰だ、お前ら」
一番前の男が、小さく頭を下げる。
「回収です」
淡々とした声だった。
「対象、水谷真。及び残穢」
梓の目が細くなる。
「待ってください。今は治療を——」
「優先順位が違います」
男は即答した。
「残穢の拡散を防ぎます」
その言葉で、梓は周囲を見る。
零域・断絶の中心部。
黒く焼けた地面から、まだ微かに紫色の煙のようなものが立ち上っていた。
残穢。
滅殺のあとに残る滓。
掴鬼の執着が焼け残ったもの。
放置すれば、再汚染を起こす。
黒服の一人が金属製の瓶を取り出す。
蓋に札が貼られている。
特殊な封印瓶だった。
男は焦げた地面へ近づき、静かに残穢を回収していく。
煙が瓶へ吸い込まれる。
そのたびに、周囲の空気が少し軽くなる。
高峰が眉をひそめる。
「なんだそれは」
「説明義務はありません」
男は淡々としていた。
もう二人が、水谷へ近づく。
梓が反射的に前へ出る。
「待ってください!」
声が強くなる。
「この人は重傷です! 今動かしたら——」
「承知しています」
黒服は答える。
「ですが、こちらで処置します」
「信用できません」
「信用の問題ではありません」
感情がない。
ただ、業務として動いている。
梓は水谷を見る。
意識はない。
だが、呼吸はかすかに続いている。
助けなければ。
その思考が先に来る。
水谷は、自分を庇った。
命を張って。
だから。
ここで連れて行かせるわけにはいかない。
梓が八鍵を握る。
「……中森さんの指示ですか」
梓が低く言う。
男は頷く。
「“回収しろ”と」
短い沈黙。
梓は歯を食いしばる。
嫌悪が湧く。
中森はいつもそうだ。
必要な時だけ現れ、全部を持っていく。
人も。
残穢も。
情報も。
感情だけを置き去りにして。
黒服たちは慣れた動きで水谷を担架へ乗せる。
その時だった。
水谷の手が、僅かに動く。
無意識だった。
だが、その指先が。
一瞬だけ、梓の袖を掴む。
弱く。
ほとんど触れるだけ。
梓が息を呑む。
水谷は目を開けない。
意識もない。
なのに。
その動きだけが、妙に必死だった。
離すな。
掴め。
加藤清正の残響がまだ残っているわけではない。
違う。
もっと個人的な。
誰かを失いたくないという感情。
それが、無意識の奥に残っている。
そして同時に。
梓には分かってしまった。
これは、水谷自身の感情だけではない。
あの女の記憶。
佐々木結衣。
その執念が、水谷の中でまだ生きている。
梓はゆっくり、水谷の指を外した。
水谷の手が落ちる。
黒服たちは何も言わない。
そのまま担架を持ち上げる。
回収された残穢の瓶が、微かに浅黒く脈打っていた。
高峰が低く呟く。
「……なんなんだ、あいつら」
梓は答えなかった。
黒服たちはそのまま雨の向こうへ消えていく。
担架だけが遠ざかる。
サイレンの音。
雨音。
焦げた地面。
静かな夜だった。
梓はその場に立ち尽くす。
胸の灯火が、まだ燻っている。
熱い。
だが痛くない。
痛みが分からない。
それなのに。
水谷が倒れた時だけ、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
痛みではない。
もっと曖昧な。
失いたくない、という感情に近い何か。
梓はゆっくり目を閉じる。
雨が頬を濡らす。
それが涙なのかどうか、もう自分でも分からなかった。
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車内は、静かだった。
雨音だけが一定の間隔で車体を叩いている。ワイパーが水を払い、そのたびに街の灯りが滲んだ。
後部座席で、水谷は眠っていた。
いや。
気絶している、という方が近い。
呼吸は浅い。右肩は固定され、胸部には術式札が何枚も貼られている。黒服の一人が処置を続けていたが、それでも状態は危険だった。
零域・断絶。
あれは本来、今の水谷が知らない祓詞だ。
結衣の技だ。
中森安行は、助手席で煙草をくわえたまま、バックミラー越しに水谷を見ていた。
「……始まったか」
小さく呟く。
予兆は前からあった。
だが、今回ではっきりした。
境界が崩れている。
水谷真と、佐々木結衣。
二つの人格が、混ざり始めている。
黒服の一人が低く聞く。
「不安定ですか」
「いや」
中森は煙を吐く。
「もっと厄介だ」
軽い口調だった。
だが、目は笑っていない。
中森は知っている。
水谷真という男が、最初から“普通の生還者”ではないことを。
あれは本来、死んでいた。
いや。
正確には、“消えているはずだった”。
昔、水谷は残響に寄生された。
四人家族だった。
父。
母。
妹。
そして、水谷。
寄生型残響は、家族への執着を利用する。愛情を歪め、守るという感情を破壊へ変える。
水谷は侵食された。
そして、自らの手で家族を殺した。
父を。
母を。
…そして妹を。
泣きながら。
壊れながら。
最後に残ったのは、血塗れの家と、水谷だけだった。
そこへ現れたのが、佐々木結衣だった。
結衣もまた、四人家族だった。
父。
母。
兄。
そして、結衣。
だが、結衣の家族も残響に壊されている。
兄が寄生された。
父母を殺した。
結衣自身も瀕死になった。
違ったのは、生き残った側だけだった。
だから。
結衣は、水谷を見た時、迷った。
もしかすると救えるのではないか。
兄を目に前にして刃を向けることができるのか。
妹まで手にかけ、泣きながら、壊れながら、絶望している男が自分の兄と重なった。
そう考えてしまった。
本来なら、滅殺は迷わない。
情を挟めば術式が歪む。
だから結衣は常に残響を憎み、切り捨てる事で、自分を保っていた。
だが。
水谷だけは違った。
同情した。
理解してしまった。
その瞬間。
滅殺の祓詞が、不完全になった。
残響だけが消え、水谷の肉体だけが残った。
本来なら、宿主ごと消滅していたはずなのに。
魂だけが抜け落ちたような、空の肉体。
植物状態。
中森は、その肉体を回収した。
理由は単純だった。
利用価値があると思ったからだ。
娘。
千恵。
奥の治療室で、消滅の呪いに蝕まれ続けている女。
残穢を利用した延命。
祀社とも繋がる異常技術。
その中で、中森はずっと探していた。
“器”を。
魂を残したまま、別の何かを定着させられる器を。
だから、水谷を捨てなかった。
そして。
さらに都合のいい事態が起きた。
天草四郎戦。
佐々木結衣は、灼滅を使用した。
本来なら、肉体どころか魂ごと燃え尽きる最終祓詞。
だが。
あの時は、真名井梓も同時に力へ触れていた。
結果、完全な消滅にならなかった。
結衣の肉体は死んだ。
だが。
精神だけが残った。
中森は今でも覚えている。
冷え切った部屋。
焼け焦げた空気。
そして、声だけが響いた。
《……梓を、助けたい》
肉体の無い精神体。
普通なら崩壊する。
だが結衣は残った。
執念だけで。
中森は、その時点で理解した。
利用できる、と。
だから提案した。
空になった肉体がある。
魂の抜けた器がある。
入るか、と。
結衣は迷わなかった。
結果、水谷は目覚めた。
だが完全な融合ではなかった。
人格の主導権は水谷側に残った。
その代わり、記憶が壊れた。
自分が誰なのか。
何をしたのか。
なぜ生きているのか。
ほとんど失っていた。
そして、結衣側も沈んだ。
表層には出ない。
ただ、深層へ沈殿した。
だから中森は、その状態を利用した。
残穢回収役。
滅殺者。
結衣の代わりとして。
水谷へ八咫刃を持たせ、仕事をさせた。
記憶の無い男は使いやすい。
過去を問わない。
罪悪感も薄い。
そして何より。
結衣の滅殺適性が、その身体に残っていた。
中森は煙草を揉み消す。
「だが、そろそろ限界か」
後部座席。
水谷の眉が微かに動く。
夢を見ている。
知らない景色。
紫電。
黒刀。
血。
そして。
誰かを庇う感覚。
(……梓)
女の声だった。
黒服の一人が顔を上げる。
中森は静かに目を細める。
「もう、“記憶”じゃねぇな」
人格だ。
結衣の自我が、浮き上がり始めている。
今回、水谷は自分の意思と関係なく梓を守った。
あれは水谷自身の行動じゃない。
結衣の執念だ。
梓を守る。
死なせない。
恩を返す。
その感情が、水谷の行動へ割り込んでいる。
このまま進めば、どうなるか。
中森にも分からない。
二つの人格が融合するのか。
どちらかが消えるのか。
あるいは。
両方とも壊れるのか。
車窓の外を、雨が流れていく。
街の灯りが滲む。
中森は小さく笑った。
「……千恵の薬になるかと思ったが」
低く呟く。
「こいつぁ、思ったより面白ぇ化け物になりそうだ」
後部座席で、水谷の口が微かに動く。
(……守る)
それは、水谷の声だった。
だが同時に。
結衣の声でもあった。




