第43話 離さない手 第4章 零域・断絶
轟音のあと、一瞬だけ世界が止まった。
巨大な掌が閉じ切る。
空間そのものが圧縮され、公園の地面が沈む。砂場が陥没し、遊具が折れ、周囲の木々が根元から軋む。
梓は、息ができなかった。
押し潰されている。
だが、完全ではない。
目の前に、水谷の背中があった。
庇われている。
その事実を理解するのに、数秒かかった。
水谷は片膝をついていた。
巨大な圧力を、無理やり受け止めている。
八咫刃を地面へ突き立て、空間へ楔のように押し込んでいる。紫電が周囲へ散り、掌の圧縮を辛うじて止めていた。
だが、止め切れていない。
水谷の右肩が、完全に潰れていた。
骨が歪んでいる。
腕の形がおかしい。
肋骨も折れている。
普通なら立てない。
だが、水谷は倒れない。
呼吸を荒げながら、なお踏ん張っている。
梓が声を出す。
「離れてください……!」
水谷が振り返る。
その目が、一瞬だけ別人みたいに見えた。
「黙ってろ」
低い声。
だが、その奥に混ざっている。
別の感情が。
水谷自身のものではない、誰かの執念が。
(死なせない)
また、声が聞こえる。
女の声。
頭の奥で響く。
佐々木結衣。
知らないはずの名前。
知らないはずの感情。
だが、その記憶だけが鮮明だった。
紫電。
血。
黒い刃。
そして。
“梓を守る”という異様なほど強い衝動。
水谷が歯を食いしばる。
「……なんでだ」
意味が分からない。
なぜここまで身体が動く。
なぜ命を張っている。
理解できない。
だが。
退けない。
掴鬼の掌がさらに閉じる。
《離すな》
加藤清正の声が響く。
《守れ》
圧力が増す。
空間が軋む。
水谷の膝が沈む。
八咫刃へ走る紫電が乱れ始める。
限界だった。
このままでは二人まとめて潰される。
梓が八鍵を握る。
灯火が脈打つ。
転位侵界。
使えば止められるかもしれない。
だが。
その前に、水谷が動いた。
ゆっくりと。
壊れた腕で。
八咫刃を持ち上げる。
紫電が、刃全体へ走る。
空気が変わる。
梓の顔色が変わる。
嫌な予感がした。
だが、本能的に理解する。
危険だ。
これは。
滅殺系の中でも、さらに深い。
縁を燃やす。
何かを代償にする。
そういう類の力。
水谷の脳裏で、また記憶が混ざる。
黒い雨。
焼けた空間。
地面へ突き立てられる黒刀。
そして。
女の声。
(全部、断て!)
その瞬間。
言葉が、自然に口から落ちた。
「——零域・断絶」
梓の目が見開かれる。
次の瞬間。
地面に突き立てられた八咫刃が応じる。
轟音。
黒い円陣が、足元から広がった。
紫電が走る。
円形。
巨大な術式。
地面を這い、公園全体を飲み込む。
空間が裂ける。
いや。
“掴む”という概念そのものが焼かれていく。
《——!》
加藤清正の声が、初めて揺らぐ。
巨大な掌が崩れる。
指がほどける。
拘束が消える。
周囲で絡み合っていた遊具が砕け、歪んでいた木々が一斉に解放される。
遠くから悲鳴が聞こえる。
一般人たちの拘束も、切れている。
抱き合ったまま離れなかった人間たちが、一斉に崩れ落ちる。
掴鬼の概念が焼かれている。
離さない。
掴む。
縛る。
その思想ごと。
零域・断絶。
それは代償を贄に発動させる滅殺祓詞。
“存在する前提”そのものを、円陣ごと焼き切る祓詞だった。
加藤清正の残響が悲鳴を上げる。
《守らねば》
《失っては——》
声が途切れる。
紫電が飲み込む。
拘束が崩れる。
圧壊が消える。
巨大な鎧の輪郭が、円陣の中で裂け始める。
水谷の口から血が落ちる。
零域・断絶は、発動者の“縁”を燃料にする。
何かが消えていく。
人との繋がり。
記憶。
存在の痕跡。
水谷自身はまだ理解していない。
だが、確実に何かを失っている。
それでも。
刃を止めない。
「——全部、断て!」
紫電が爆ぜる。
掴鬼の巨大な掌が、完全に崩壊する。
空間を拘束していた力が消え、公園へ静寂が落ちた。
梓は息を呑む。
終わった。
だが。
水谷が、その場で崩れた。
八咫刃が地面へ落ちる。
紫電が消える。
水谷の呼吸は浅い。
肩は潰れ、全身から血が流れている。
それでも、最後まで梓を庇う姿勢だけは崩していなかった。
梓が駆け寄る。
「水谷さん!」
水谷は薄く目を開ける。
焦点が合っていない。
その視線が、一瞬だけ梓を見る。
そして。
知らない女の声が、また微かに重なる。
(……守れた)
水谷の目が揺れる。
自分の感情ではない。
なのに。
妙に安心した感覚だけが残っていた。
その違和感に戸惑いながら、水谷はゆっくりと意識を失った。




