第43話 離さない手 第3章 掴まれた記憶
空間そのものが、梓を掴んでいた。
見えない。
だが、確かに握られている。
肺が潰れる。
肋骨が軋む。
腕が動かない。
掴鬼は“対象を拘束する”のではない。“離れられない状態”を成立させる。梓の身体は空間へ固定され、そのまま圧壊され始めていた。
《離すな》
加藤清正の声が落ちる。
《守れ》
巨大な掌が閉じていく。
梓の周囲の空間が歪む。
空気が圧縮される。
普通なら、痛みで叫んでいた。
だが、梓には痛みがない。
だからこそ危険だった。
肋骨が折れている。
肺が圧迫されている。
身体のどこかが壊れている。
それが感覚として返ってこない。
ただ、息ができない。
その事実だけがある。
梓は八鍵を握る。
灯火が熱い。
転位侵界が反応している。
だが、まだ足りない。
世界側は開かない。
この程度では、“極限”として認識されていない。
梓は歯を食いしばる。
なら、修正するしかない。
掴鬼の核。
“離さない”という執着。
それをほどく。
そのために、もっと近づく必要がある。
もっと深く。
梓が前へ踏み込もうとした、その瞬間だった。
黒い影が横から割り込む。
水谷だった。
八咫刃が、巨大な掌へ叩き込まれる。
紫電が炸裂する。
「祓詞・断祈!」
空間が裂ける。
掴鬼の拘束が、一瞬だけ緩む。
梓の身体が解放され、そのまま後ろへ崩れ落ちる。
梓が息を呑む。
「……水谷さん!」
「下がれ!」
怒鳴る。
荒い声。
水谷はそのまま前へ出る。
巨大な掌が、今度は水谷を掴む。
握り潰す。
骨が鳴る。
だが、水谷は止まらない。
八咫刃を無理やり押し込む。
紫電が暴れ、空間そのものへ亀裂を走らせる。
梓は目を見開く。
理解できなかった。
なぜ。
水谷が、自分を庇ったのか。
ありえない。
思想は最悪だ。
関係も険悪だ。
蘆屋道満の件以降、互いに歩み寄ってもいない。
水谷は梓の修正を嫌っている。
なら。
なぜ、今。
命を張った。
「……何してるんですか!」
梓が叫ぶ。
「あなたは、滅殺を優先するんじゃ——」
「うるさい!」
水谷が怒鳴る。
八咫刃を握る腕が震えている。
圧力が強い。
握り潰される。
普通なら、退く。
だが退けない。
退きたくない。
違う。
退かせてもらえない。
その感覚に、水谷自身が混乱していた。
(なんだ……これは)
意味が分からない。
なぜ身体が勝手に動いた。
なぜ梓を庇った。
理解できない。
なのに。
“守らなければならない”という衝動だけが、異様なほど強かった。
《離すな》
加藤清正の声が響く。
その瞬間。
水谷の視界が揺れた。
違う景色が混ざる。
暗い廊下。
血の匂い。
紫電。
黒い刃。
そして。
女の声。
(……守って)
水谷の呼吸が止まる。
知らない声。
なのに。
懐かしい。
(梓を)
頭痛が走る。
視界の奥で、短い黒髪の女が振り返る。
ショートボブ。
鋭い目。
黒い小太刀。
紫電。
知らないはずの顔が、頭へ浮かぶ。
「……っ!」
水谷が顔を歪める。
フラッシュバックが走る。
崩壊する空間。
焼けるような紫電。
血。
そして。
(絶対に死なせない)
声。
命令。
執念。
それが、水谷の中へ流れ込む。
加藤清正の圧力がさらに強くなる。
空間が軋む。
水谷の肩から嫌な音がした。
関節が外れている。
だが痛みより先に、別の感情が来る。
守れ。
離すな。
いや。
違う。
これは掴鬼の執着じゃない。
もっと別の。
もっと個人的な。
“死なせたくない”という感情。
水谷が低く息を吐く。
「……なんなんだ」
自分へ向けた声だった。
理解できない。
なのに、身体だけは迷わない。
八咫刃へ、さらに紫電が走る。
刃が唸る。
水谷の中で、佐々木結衣の記憶が混ざっていく。
知らない景色。
知らない戦い。
知らない感情。
なのに。
梓が危険に晒されると、“守らなければならない”という衝動だけが異様に強くなる。
梓が立ち上がる。
息が乱れている。
水谷を見る。
そして、その異常に気づく。
「……あなた」
様子がおかしい。
目の焦点が揺れている。
まるで、別人の記憶を見ているように。
その瞬間。
掴鬼の巨大な掌が、二人まとめて握り潰そうと閉じる。
空間が悲鳴を上げる。
逃げ場がない。
水谷が反射的に梓を抱き寄せる。
自分でも考えていない動きだった。
「——っ!」
梓が目を見開く。
次の瞬間。
掌が閉じる。
轟音。
地面が沈む。
公園全体が揺れる。
だが。
水谷は最後まで、梓を庇ったままだった。




