第43話 離さない手 第2章 掴まれたまま
最初に潰れたのは、遊具だった。
鉄製のジャングルジムが、見えない力で握り締められる。軋む音。金属が悲鳴を上げる。次の瞬間、外側から圧縮されたように歪み、中央から折れた。
水谷は反射的に後ろへ飛ぶ。
その直後、巨大な手の影が地面を叩いた。
轟音。
砂場が陥没する。
掴鬼。
加藤清正の残響。
まだ完全に姿を現していない。だが、空間そのものへ干渉している。掴む。固定する。逃がさない。その執着だけで周囲を書き換えている。
《離すな》
声が響く。
低い。
怒声ではない。
懇願に近い。
《守れ》
《失うな》
地面から、さらに手が伸びる。
人間の腕ではない。
黒い泥のような質感。だが形だけは異様に鮮明で、節くれ立った指が空間を掴むたび、周囲の景色が歪む。
梓が札を走らせる。
「遮断・断界」
青白い膜が展開する。
だが。
次の瞬間、膜ごと握り潰された。
音が消える。
術式の輪郭が、圧力で軋み、潰れ、砕ける。
梓の呼吸が止まる。
「……っ」
強い。
純粋な力ではない。
“掴んだものを離さない”という思想そのものが、術式へ干渉している。防御を防御として成立させない。掴んで固定し、そのまま圧壊する。
水谷が前へ出る。
八咫刃を抜く。
黒い刃に、紫電が走る。
「阻害・断裂」
低く祓詞を落とす。
刃が振るわれる。
紫電が巨大な手を断ち切る。だが、切断面がすぐに閉じる。泥のような肉が再び繋がり、何事もなかったように再生する。
水谷の目が細くなる。
再生ではない。
掴んでいる。
切断という結果そのものを固定していない。
だから“切れたまま”にならない。
《離すな》
声が近づく。
石碑の奥。
空気が盛り上がる。
鎧姿の巨大な影が、ゆっくりと現れ始める。
甲冑。
黒い外殻。
だが顔だけが曖昧だ。
泣いているようにも見える。
怒っているようにも見える。
その両方だった。
《守れ》
《守り切れ》
《離せば、失う》
言葉と同時に、公園全体が軋む。
ブランコの鎖が勝手に絡まり合う。滑り台の手すりが内側へ曲がる。木々の枝が互いを締め付けるように捻れる。
掴鬼は、周囲のすべてへ“拘束”を拡張している。
梓が八鍵を構え直す。
胸の灯火が熱い。
だが、今は使えない。
転位侵界を乱発すれば、何を失うか分からない。
しかも今の梓は痛覚がない。
自分がどこまで壊れているか、途中で判断できない。
それでも前へ出る。
「……修正します」
水谷が舌打ちする。
「またそれか」
「このまま滅殺しても、拘束が周囲へ残る可能性があります」
「残穢ごと回収する」
「人間を巻き込んだままです」
水谷の視線が鋭くなる。
言い返そうとした、その瞬間だった。
公園の外から悲鳴が聞こえた。
二人が振り向く。
道路沿い。
通行人同士が抱き合ったまま動けなくなっていた。
男が女を掴んでいる。
いや、違う。
互いに掴み合っている。
腕が離れない。
指が食い込んでいる。
泣いている。
「行かないで」
「置いてかないで」
知らない者同士だった。
だが関係ない。
掴鬼は“喪失への恐怖”を感染させる。
孤独。
別離。
失う不安。
それを核にして、人間を互いへ縛りつける。
さらに、別の場所でガラスが割れる音。
マンションのベランダ。
母親が幼い子供を抱き締めたまま柵を乗り越えようとしていた。
高峰の無線が鳴る。
『東湾中央通りで複数の拘束事案発生! 応援を——』
途中で声が潰れる。
誰かが泣いている。
無線の向こうで。
梓の顔色が変わる。
「広がってる……」
残響空間が拡大している。
しかも速い。
通常の残響は、核となる場所を中心に侵食する。だが掴鬼は違う。“繋がり”を媒介にして広がる。人間関係そのものが感染経路になる。
家族。
恋人。
友人。
上司と部下。
親と子。
失いたくない相手がいるほど、侵食される。
《離すな》
加藤清正の影が、さらに巨大化する。
空間を掴んでいる。
公園そのものを握り潰そうとしている。
水谷が再び踏み込む。
紫電が走る。
「滅殺・断祈」
黒い刃が影の腕を切り裂く。
今度は深く入った。
だが。
次の瞬間、水谷の身体が止まる。
巨大な手が、八咫刃を掴んでいた。
刃を。
直接。
紫電が暴れる。
だが離れない。
掴んでいる。
絶対に。
《守れ》
圧力が走る。
八咫刃が軋む。
水谷の腕の骨が鳴る。
普通なら激痛で動けない。
だが水谷は構わず押し返す。
その横で、梓が札を展開する。
「遮断・絶界!」
空間全体へ防御が走る。
だが。
掴鬼の巨大な掌が、それを包み込む。
握る。
潰す。
防御そのものが、圧縮される。
梓の喉から息が漏れる。
「……っ」
強すぎる。
しかも、加藤清正は戦いながら侵食を広げている。
止まらない。
外では今も誰かが誰かを掴み、締め付け、潰し続けている。
高峰の無線から怒鳴り声が聞こえる。
『応援要請! 一般人同士が——』
絶叫。
骨の折れる音。
通信が途切れる。
梓の胸の灯火が、強く脈打った。
熱い。
転位侵界が反応している。
だが、まだ足りない。
極限ではない。
世界側は開かない。
水谷が舌打ちする。
「最悪だな」
八咫刃を握ったまま、低く吐き捨てる。
その瞬間。
巨大な影の掌が、梓へ向いた。
《離すな》
声が落ちる。
《守れ》
次の瞬間、空間そのものが梓を掴んだ。




