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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第43話 離さない手 第1章 握ったまま

 最初の通報は、家庭内トラブルとして扱われた。


 夫が妻を離さない。そう聞けば、警察の受け止め方はある程度決まっている。暴力、監禁、ストーカー、あるいは離婚話のもつれ。どれも珍しくはない。呼ばれた警官も、最初はその範囲で考えていた。


 場所は郊外の戸建てだった。築年数は浅く、外観は整っている。玄関脇には子供用の自転車が倒れていて、門柱の横には植木鉢が三つ並んでいた。生活の形は残っている。だが、インターホンを押した時点で、中から聞こえてきた声が普通ではなかった。


 女の声だった。


「離して!」


 叫びではない。怒鳴り声でもない。喉が枯れ、何度も同じ言葉を繰り返した後の声だった。


「お願い、離して」


 警官が玄関を開けると、廊下の奥で夫婦が座り込んでいた。夫が妻の右手首を握っている。強く握っている。妻の手首は赤黒く変色し、指先は紫に近い色になっていた。妻は泣いていた。夫も泣いていた。


 異様なのは、夫の表情だった。


 怒っていない。


 憎んでいない。


 むしろ、必死に縋っている顔だった。


「離したら、いなくなる」


 夫はそう言った。


「離したら、全部終わる」


 警官が説得する。手を離すように言う。だが夫は首を振る。妻は痛みで震えている。手首の骨が軋む音が、近くにいた警官には聞こえたという。だが夫の握力は緩まない。腕だけが異様に硬直し、手のひらが妻の手首へ食い込んでいた。


 警官二人が夫の指を剥がそうとした。


 剥がれなかった。


 筋肉の力ではない。指が、手首に固定されている。接着剤でも使ったように動かない。無理に引けば、妻の皮膚ごと剥がれそうになる。妻が悲鳴を上げ、警官は手を止めた。


 その間にも、夫は泣き続けていた。


「守らないと」


「もう失いたくない」


「今度は離さない」


 言葉は脈絡がない。だが、同じ意味へ戻っていく。離すな。失うな。掴んでいろ。守り切れ。何度も何度も、同じ場所へ戻る。


 救急隊が呼ばれた。


 だが搬送は難航した。夫の手を離せないまま、妻も夫も一緒に担架へ乗せるしかなかった。病院へ着いた時、妻の手首は完全に潰れていた。神経も血管も損傷していた。夫はその間ずっと、同じ言葉を繰り返していた。


「離したら、いなくなる」


 それだけなら、まだ一件の異常事件で済んだかもしれない。


 だが、その夜から似た通報が続いた。


 母親が、子供を抱いたまま離さない。子供は中学生で、自力で逃れようとしていたが、母親の両腕が胴に食い込み、肋骨を折っていた。母親は泣きながら「この子を守らないと」と繰り返していた。子供は息ができないと訴えていた。


 会社では、上司が部下の肩を掴んだまま離さなかった。退職届を出した部下を引き止めようとしていたらしい。最初は説得だった。次に懇願になり、最後は拘束になった。上司の指が肩に食い込み、鎖骨が折れた。それでも上司は離さなかった。


 駅では、別れ話をしていた男女のうち、男が女の腕を掴んだまま動かなくなった。女は逃げようとした。周囲が止めに入った。だが男の手は剥がれない。女の腕だけが引き延ばされるように変形し、皮膚の下で何かが裂ける音がした。男は泣いていた。


 どの事例も、加害者は怒っていなかった。


 暴力を振るっているという自覚もない。


 ただ、失うことを恐れていた。


 離せば終わる。離せば消える。離せば守れない。そう信じ込んでいた。だから掴む。抱き締める。押さえつける。手放さない。その結果、相手が壊れても、それを“守っている”と認識している。


 高峰修一は、報告書を見てすぐに残響案件だと判断した。


 だが、この件で最初に動いたのは梓ではなかった。


 水谷だった。


 中森の事務所で、警察無線の断片を聞いていた。東湾管内で、拘束を伴う異常事件が複数発生。被害者は圧迫による損傷。加害者はいずれも強い喪失不安を訴える。薬物反応なし。共通点は不明。


 中森は煙草をくわえたまま、受信機の音を絞った。


「掴鬼の力を宿した残響だな…」


 軽い声だった。


「ある意味、分かりやすくて助かる」


 水谷は壁際に立っていた。八咫刃は布に包んだまま、近くの机に置いている。前回の舌鬼の残穢は回収済みだった。瓶は中森に渡してある。契約は履行されている。


「対象は?」


 水谷が聞く。


 中森は端末を軽く叩く。


「掴鬼の思念から、恐らく正体は加藤清正だ」


 名前だけで、空気がわずかに変わった。


「守り切れなかったヤツだ。掴む。離さねえ。守るつもりで潰す。厄介だぞ」


「真名井は?」


 水谷が短く問う。


「あっちも動く」


 中森は笑った。


「たぶんな」


 水谷の表情がわずかに硬くなる。


 蘆屋道満の件以降、真名井梓との関係は悪い。もともと思想は合わない。梓は修正する。水谷は滅殺する。梓は終わらせ方に意味を求める。水谷は残穢を回収し、確実に処理する。そこに妥協はない。


 水谷は梓を甘いと思っている。


 甘いだけならまだいい。


 その甘さで、事態を悪化させる。


 そう見ている。


「今回は先に滅殺します」


 水谷は言った。


 中森に対してだけは敬語を崩さない。


「おう。残穢は忘れんなよ。慈善活動じゃねえんだからな」


「分かってます」


 水谷は八咫刃を手に取る。


 黒い刃はまだ布の中にある。だが、握っただけで分かる。中にあるものが、静かにこちらを待っている。縁を食う武器。何かを失わせる刃。だが、水谷にはそれを恐れる感覚が薄い。何を持っているのか分からない者は、何を失うのかも分からない。


 ただ、最近は違う。


 分からないはずのものが、時々、胸の奥に引っかかる。


 舌鬼の時に聞こえた女の声。


 甘い。


 切り切れていない。


 それは自分の記憶ではない。だが、完全な他人のものでもない。八咫刃を握ると、時折それが近くなる。佐々木結衣という名前を、水谷はまだ知らない。だが、知らないままでも、彼女の何かが自分の内側に混じっていることだけは感じていた。


 中森の事務所を出ると、外は曇っていた。


 雨は降っていない。


 だが、空は低い。


 押し潰すような雲が、街の上に垂れ込めている。


 水谷は現場へ向かった。


 最初の発生地点は、古い寺の近くにある小さな公園だった。加藤清正に関する石碑がある。地元の者でもほとんど気に留めないような小さなものだ。だが、その周辺で複数の異常が起きている。掴む、抱える、離さない。すべてが、そこを中心に広がっている。


 水谷が公園へ着いた時、すでに梓がいた。


 八鍵を持ち、石碑の前に立っている。


 まだ病み上がりのはずだった。


 転位侵界の代償で痛覚を失ったと聞いている。中森がそう言っていた。水谷はそれを聞いた時、特に何も返さなかった。痛みがないなら便利だろうとすら思った。だが、目の前の梓を見て、その考えは少しだけ変わった。


 梓の手首に、包帯が巻かれていた。


 巻き方が少し乱れている。


 おそらく、自分で傷に気づくのが遅れたのだろう。


 痛みがない。


 それは強さではない。


 壊れているだけだ。


 梓が振り返る。


 水谷を見る。


 表情がすぐに硬くなる。


「……水谷さん」


 声は静かだった。


 だが、歓迎ではない。


 水谷も足を止める。


「残響を滅殺する」


 単刀直入に言う。


 梓の目が細くなる。


「私は修正を試みます」


「またか」


 水谷の声が低くなる。


「蘆屋道満の時に分かったはずだ。中途半端に情けをかければ、被害が広がる」


「情けではありません」


 梓はすぐに返す。


「終わらせ方の問題です」


「結果の問題だ」


 水谷は言う。


「お前の修正は遅い」


 梓の表情は変わらない。


 だが、八鍵を握る指に力が入る。


「それでも、消す前に確かめるべきことがあります」


「確かめている間に、誰かが潰される」


 会話は噛み合わない。


 以前からそうだった。


 だが、今日はそれがいつも以上に尖っている。


 水谷は八咫刃の布を解く。


 黒い刃が現れる。


 梓が一瞬、その刃を見る。


 表情がわずかに変わる。


「それは……」


「関係ない」


 水谷は遮る。


 その時だった。


 石碑の奥で、地面が軋んだ。


 空気が変わる。


 公園の遊具が、微かに震える。


 砂場の砂が、何かに握り固められるように沈む。


《離すな》


 声が落ちる。


 低く、重い。


《離せば、失う》


 石碑の周囲に、巨大な手の影が浮かび上がる。


 指。


 太い。


 無数。


 地面から伸び、空間を掴む。


 梓が八鍵を構える。


 水谷も刃を構える。


 だが、次の瞬間。


 影の手が、二人を同時に狙って伸びた。


 掴鬼。


 加藤清正の残響が、姿を現そうとしていた。

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