第43話 離さない手 第1章 握ったまま
最初の通報は、家庭内トラブルとして扱われた。
夫が妻を離さない。そう聞けば、警察の受け止め方はある程度決まっている。暴力、監禁、ストーカー、あるいは離婚話のもつれ。どれも珍しくはない。呼ばれた警官も、最初はその範囲で考えていた。
場所は郊外の戸建てだった。築年数は浅く、外観は整っている。玄関脇には子供用の自転車が倒れていて、門柱の横には植木鉢が三つ並んでいた。生活の形は残っている。だが、インターホンを押した時点で、中から聞こえてきた声が普通ではなかった。
女の声だった。
「離して!」
叫びではない。怒鳴り声でもない。喉が枯れ、何度も同じ言葉を繰り返した後の声だった。
「お願い、離して」
警官が玄関を開けると、廊下の奥で夫婦が座り込んでいた。夫が妻の右手首を握っている。強く握っている。妻の手首は赤黒く変色し、指先は紫に近い色になっていた。妻は泣いていた。夫も泣いていた。
異様なのは、夫の表情だった。
怒っていない。
憎んでいない。
むしろ、必死に縋っている顔だった。
「離したら、いなくなる」
夫はそう言った。
「離したら、全部終わる」
警官が説得する。手を離すように言う。だが夫は首を振る。妻は痛みで震えている。手首の骨が軋む音が、近くにいた警官には聞こえたという。だが夫の握力は緩まない。腕だけが異様に硬直し、手のひらが妻の手首へ食い込んでいた。
警官二人が夫の指を剥がそうとした。
剥がれなかった。
筋肉の力ではない。指が、手首に固定されている。接着剤でも使ったように動かない。無理に引けば、妻の皮膚ごと剥がれそうになる。妻が悲鳴を上げ、警官は手を止めた。
その間にも、夫は泣き続けていた。
「守らないと」
「もう失いたくない」
「今度は離さない」
言葉は脈絡がない。だが、同じ意味へ戻っていく。離すな。失うな。掴んでいろ。守り切れ。何度も何度も、同じ場所へ戻る。
救急隊が呼ばれた。
だが搬送は難航した。夫の手を離せないまま、妻も夫も一緒に担架へ乗せるしかなかった。病院へ着いた時、妻の手首は完全に潰れていた。神経も血管も損傷していた。夫はその間ずっと、同じ言葉を繰り返していた。
「離したら、いなくなる」
それだけなら、まだ一件の異常事件で済んだかもしれない。
だが、その夜から似た通報が続いた。
母親が、子供を抱いたまま離さない。子供は中学生で、自力で逃れようとしていたが、母親の両腕が胴に食い込み、肋骨を折っていた。母親は泣きながら「この子を守らないと」と繰り返していた。子供は息ができないと訴えていた。
会社では、上司が部下の肩を掴んだまま離さなかった。退職届を出した部下を引き止めようとしていたらしい。最初は説得だった。次に懇願になり、最後は拘束になった。上司の指が肩に食い込み、鎖骨が折れた。それでも上司は離さなかった。
駅では、別れ話をしていた男女のうち、男が女の腕を掴んだまま動かなくなった。女は逃げようとした。周囲が止めに入った。だが男の手は剥がれない。女の腕だけが引き延ばされるように変形し、皮膚の下で何かが裂ける音がした。男は泣いていた。
どの事例も、加害者は怒っていなかった。
暴力を振るっているという自覚もない。
ただ、失うことを恐れていた。
離せば終わる。離せば消える。離せば守れない。そう信じ込んでいた。だから掴む。抱き締める。押さえつける。手放さない。その結果、相手が壊れても、それを“守っている”と認識している。
高峰修一は、報告書を見てすぐに残響案件だと判断した。
だが、この件で最初に動いたのは梓ではなかった。
水谷だった。
中森の事務所で、警察無線の断片を聞いていた。東湾管内で、拘束を伴う異常事件が複数発生。被害者は圧迫による損傷。加害者はいずれも強い喪失不安を訴える。薬物反応なし。共通点は不明。
中森は煙草をくわえたまま、受信機の音を絞った。
「掴鬼の力を宿した残響だな…」
軽い声だった。
「ある意味、分かりやすくて助かる」
水谷は壁際に立っていた。八咫刃は布に包んだまま、近くの机に置いている。前回の舌鬼の残穢は回収済みだった。瓶は中森に渡してある。契約は履行されている。
「対象は?」
水谷が聞く。
中森は端末を軽く叩く。
「掴鬼の思念から、恐らく正体は加藤清正だ」
名前だけで、空気がわずかに変わった。
「守り切れなかったヤツだ。掴む。離さねえ。守るつもりで潰す。厄介だぞ」
「真名井は?」
水谷が短く問う。
「あっちも動く」
中森は笑った。
「たぶんな」
水谷の表情がわずかに硬くなる。
蘆屋道満の件以降、真名井梓との関係は悪い。もともと思想は合わない。梓は修正する。水谷は滅殺する。梓は終わらせ方に意味を求める。水谷は残穢を回収し、確実に処理する。そこに妥協はない。
水谷は梓を甘いと思っている。
甘いだけならまだいい。
その甘さで、事態を悪化させる。
そう見ている。
「今回は先に滅殺します」
水谷は言った。
中森に対してだけは敬語を崩さない。
「おう。残穢は忘れんなよ。慈善活動じゃねえんだからな」
「分かってます」
水谷は八咫刃を手に取る。
黒い刃はまだ布の中にある。だが、握っただけで分かる。中にあるものが、静かにこちらを待っている。縁を食う武器。何かを失わせる刃。だが、水谷にはそれを恐れる感覚が薄い。何を持っているのか分からない者は、何を失うのかも分からない。
ただ、最近は違う。
分からないはずのものが、時々、胸の奥に引っかかる。
舌鬼の時に聞こえた女の声。
甘い。
切り切れていない。
それは自分の記憶ではない。だが、完全な他人のものでもない。八咫刃を握ると、時折それが近くなる。佐々木結衣という名前を、水谷はまだ知らない。だが、知らないままでも、彼女の何かが自分の内側に混じっていることだけは感じていた。
中森の事務所を出ると、外は曇っていた。
雨は降っていない。
だが、空は低い。
押し潰すような雲が、街の上に垂れ込めている。
水谷は現場へ向かった。
最初の発生地点は、古い寺の近くにある小さな公園だった。加藤清正に関する石碑がある。地元の者でもほとんど気に留めないような小さなものだ。だが、その周辺で複数の異常が起きている。掴む、抱える、離さない。すべてが、そこを中心に広がっている。
水谷が公園へ着いた時、すでに梓がいた。
八鍵を持ち、石碑の前に立っている。
まだ病み上がりのはずだった。
転位侵界の代償で痛覚を失ったと聞いている。中森がそう言っていた。水谷はそれを聞いた時、特に何も返さなかった。痛みがないなら便利だろうとすら思った。だが、目の前の梓を見て、その考えは少しだけ変わった。
梓の手首に、包帯が巻かれていた。
巻き方が少し乱れている。
おそらく、自分で傷に気づくのが遅れたのだろう。
痛みがない。
それは強さではない。
壊れているだけだ。
梓が振り返る。
水谷を見る。
表情がすぐに硬くなる。
「……水谷さん」
声は静かだった。
だが、歓迎ではない。
水谷も足を止める。
「残響を滅殺する」
単刀直入に言う。
梓の目が細くなる。
「私は修正を試みます」
「またか」
水谷の声が低くなる。
「蘆屋道満の時に分かったはずだ。中途半端に情けをかければ、被害が広がる」
「情けではありません」
梓はすぐに返す。
「終わらせ方の問題です」
「結果の問題だ」
水谷は言う。
「お前の修正は遅い」
梓の表情は変わらない。
だが、八鍵を握る指に力が入る。
「それでも、消す前に確かめるべきことがあります」
「確かめている間に、誰かが潰される」
会話は噛み合わない。
以前からそうだった。
だが、今日はそれがいつも以上に尖っている。
水谷は八咫刃の布を解く。
黒い刃が現れる。
梓が一瞬、その刃を見る。
表情がわずかに変わる。
「それは……」
「関係ない」
水谷は遮る。
その時だった。
石碑の奥で、地面が軋んだ。
空気が変わる。
公園の遊具が、微かに震える。
砂場の砂が、何かに握り固められるように沈む。
《離すな》
声が落ちる。
低く、重い。
《離せば、失う》
石碑の周囲に、巨大な手の影が浮かび上がる。
指。
太い。
無数。
地面から伸び、空間を掴む。
梓が八鍵を構える。
水谷も刃を構える。
だが、次の瞬間。
影の手が、二人を同時に狙って伸びた。
掴鬼。
加藤清正の残響が、姿を現そうとしていた。




