第44話 空になる器 第2章 代わりの器
祀社の廊下で、最初に壊れたのは人だった。
音は大きくなかった。叫び声も、長くは続かなかった。濡れたものが壁に叩きつけられるような音が一度して、そのあとで、床を滑る音がした。廊下にいた者たちは足を止めなかった。振り返った者もいたが、すぐに視線を戻した。ここでは、異常を見たからといって驚く者は少ない。驚いたところで、何も変わらない。
壁際に、祀社の構成員が一人倒れていた。白い作業衣の胸元が裂け、床に血が広がっている。首は不自然な角度で曲がり、目は開いたままだった。その前に、愛音が立っていた。
大鎌は持っていない。
手だけだった。
細い指。小さな手。だが、その指先には血が付いている。誰かを掴んだ跡ではない。抉った跡だった。
愛音は、その手を見ていた。
不思議そうに。
自分が何をしたのか、分かっていないわけではない。だが、それをどう扱えばいいのか分からない顔だった。胸元の翡翠が、濁った光を不規則に放っている。中に沈んだ層が揺れていた。骨、血、肉、皮、夢、影、自我。そのどれもが、安定していない。特に深いところで、哀しみの残響が燻っていた。
「……置いていかないで」
愛音が小さく言った。
誰に向けた言葉でもない。
目の前の死体を見ているわけでもない。もっと別のものを見ていた。古い記憶。原澤伸によって主様を失ったと錯覚させられた瞬間。哀鬼が引きずり出した喪失の形。その残りが、まだ愛音の中で腐らずに残っていた。
近くにいた構成員が、一歩下がる。
そのわずかな距離に、愛音が反応した。
「なんで離れるの」
声が低くなる。
その瞬間、構成員の身体が宙へ浮いた。愛音が触れたわけではない。ただ、翡翠が脈を打ち、影のようなものが床から伸びた。鳥山石燕の影。掴むためのものではない。だが、今の愛音はそれを喪失への反応として使っていた。
男の身体が壁に叩きつけられる。
骨の折れる音がした。
別の構成員が術式札を構える。だが発動しない。愛音がそちらを見るだけで、札の表面に刻まれた文字が歪み、意味を失う。平賀源内の自我中枢が、外部からの定義を一瞬だけ書き換えた。発動するはずだった札は、ただの紙に戻る。
廊下の奥から、低い声が落ちた。
《停止》
主の声だった。
愛音の動きが止まる。
ぴたりと。
殺意が消えたわけではない。怒りが消えたわけでもない。ただ、命令が上書きされた。愛音はゆっくりと振り返る。廊下の奥に、主が立っていた。だが、その目に人間の温度はない。
愛音の表情が変わる。
怯えでも、恐怖でもない。
安堵だった。
「主様」
小さく呼ぶ。
血の付いた手をそのまま下ろし、少しだけ近づこうとする。だが、主の声が再び落ちた。
《接近不要》
愛音の足が止まる。
その顔に、ほんのわずかな歪みが走った。
「……なんで?」
《器が不安定》
淡々とした声だった。
《哀鬼の影響が残留。喪失記憶への過反応。構成員への損耗を確認》
構成員への損耗。
床に倒れている死体も、壁にもたれたまま動かない男も、その言葉で処理された。名前も、人格も、痛みもない。祀社にとって人間は役割であり、機能であり、損耗する部品だった。
愛音は首を傾げる。
「わたし、だめ?」
《一時待機》
即答だった。
《翡翠の層安定まで、外部任務を停止。自室へ戻れ》
愛音の顔が曇る。
それは不満だった。子供が叱られた時のような、分かりやすい反応。だが、その奥にはもっと危ういものがある。離されたくない。置いていかれたくない。主様の命令が欲しい。役に立ちたい。そのどれもが、哀鬼に触れられた後では鋭い刃に変わっていた。
「次、わたしが行く」
《不可》
「でも、わたしが取るの」
《不可》
短い応答が続く。
愛音の胸元で翡翠が強く脈打った。廊下の灯りがわずかに揺れる。構成員たちは誰も動かない。動けば死ぬと分かっている。
主は動かなかった。
《待機》
その一言で、愛音の瞳の奥が揺れた。
数秒の沈黙。
それから、愛音は目を伏せる。
「……うん」
小さく答えた。
従う。
従うしかない。
愛音にとって主の命令は、自分を保つ外枠そのものだった。そこから外れることはできない。だから、どれほど不満でも、自室へ戻る。廊下に残った死体には目を向けない。自分が壊したことも、すぐに意識の外へ押し流される。
愛音が去ったあと、廊下に静けさが戻った。
構成員たちがようやく動き出す。死体を片づける者。血を拭う者。破損した壁面を記録する者。誰も感情を出さない。だが、全員が理解していた。愛音は完成に近づいている。だが、同時に制御不能へ近づいている。
祀社の奥、別の部屋では、既に次の命令が準備されていた。
暗い部屋だった。
そこに一人の女が立っている。
仮面を付けていた。
白い仮面。表情はない。目の部分だけが細く開き、その奥に人間らしい光がある。だが、その光が本当に本人のものかどうかは分からない。髪は肩の辺りで切り揃えられ、服装は黒い。愛音のような無邪気さはない。水谷のような人間味の欠落とも違う。もっと整えられた空白だった。
女は名乗っていた。
落合陽菜。
ただし、それは人であった頃の名前に過ぎない。
今もその名前を使っているだけだ。
彼女は人間ではない。人間だったものに、別の自己定義を移植した寄生体だった。世阿弥系の残響構造を基盤にした、演じる自分を維持するための器。外見、声、記憶の断片、人格らしい反応。それらはある。だが、中心が違う。
自己犠牲を厭わない。
恐怖はある。
痛みもある。
死への反応もある。
だが、それらが行動を止めないように調整されている。人に似ている。だが、人と同じではない。
祀社にとって、寄生体は使い捨てだった。
重要なのは、回収対象の残響だけだ。
主の声が部屋に落ちる。
《虚鬼となった者を回収せよ》
女は静かに顔を上げる。
仮面の奥で、目がわずかに動く。
《対象、宮本武蔵》
その名が告げられた瞬間、部屋の空気が一段下がった。
《部位、認識層。機能、無。極限時に空へ遷移。致命損傷を無効化する》
落合陽菜は黙って聞いていた。
《愛音への直接投入は不可。現時点で器は不安定。寄生体による一次回収を実行》
意味は明白だった。
落合陽菜が取りに行く。
宮本武蔵の虚鬼をその身に吸収する。
そして、祀社へ持ち帰る。
その後どうなるかも、説明される必要はない。
仮面の女は、ゆっくりと膝をついた。
「承知しました」
声は穏やかだった。
従順というより、そういう役として完成している声。
主は続ける。
《失敗時は破棄》
「承知しました」
《成功時も、器への移植後に破棄》
「承知しました」
同じ返答。
揺れない。
それを聞いていた構成員の一人が、わずかに視線を伏せた。哀れんだのかもしれない。だが、すぐに感情を消した。ここで憐れみは不要だった。任務があり、結果がある。そこに個人の価値は挟まらない。
落合陽菜は立ち上がる。
仮面の奥の目に、わずかな光が宿る。
それが覚悟なのか、演技なのか、自我なのかは分からない。
ただ一つ確かなのは、彼女が向かう先には宮本武蔵の残響がいるということだった。
負荷を無へ逃がすもの。
致命を空へ滑らせるもの。
斬っても斬れず、殺しても殺せない虚鬼。
祀社は愛音を休ませる。
その間に、別の器を使う。
壊れてもいい器を。
落合陽菜は扉へ向かう。
部屋を出る直前、主の声が最後に落ちた。
《回収せよ》
女は一度だけ振り返り、仮面の奥で静かに頷いた。
「はい」
その声には、恐怖も迷いもなかった。
だからこそ、人間ではなかった。




