第40話 舌の檻 第5章 残された味
音は、なかった。
だが確かに、何かが断たれた。
八咫刃が振り抜かれた瞬間、空間に満ちていた“味”が途切れる。舌に貼りついていた甘味も、奥に残っていた苦味も、すべてが途中で切り落とされる。咀嚼していないのに流れ込んでいた“結果”だけの感覚が、成立しなくなる。食べていないという事実が、ようやく追いついてくる。
卓の上の料理が揺れる。
崩れない。
だが、均衡が崩れている。
切り口の角度、照りの均一さ、盛り付けの高さ。ほんのわずかな歪みが連鎖する。完成されていたはずのものが、“未完成”へと落ちる。
北大路魯山人の姿が、そこにある。
斬られている。
だが血は出ない。
代わりに、輪郭が揺らぐ。
存在そのものが削れている。
《……通したか》
声が落ちる。
評価の声だった。
水谷は構えを解かない。
刃を下ろさない。
呼吸は一定。
だが、身体の奥で何かが軋む。
八咫刃が、持っていく。
何かが削られる。
だが、それが何かは分からない。
自覚できない。
ただ、減っている。
《味が落ちる》
魯山人が言う。
卓を見下ろす。
《完成が崩れる》
その声に、初めて苛立ちが混じる。
水谷は踏み込む。
距離を詰める。
魯山人の指先が動く。
料理が崩れる。
皿が砕ける。
破片が形を変え、刃のように迫る。
《食え》
声が落ちる。
《お前自身を》
味が襲う。
甘味が刃となり、苦味が突き刺さる。旨味が圧となり、内側へ押し込まれる。舌を介さず、直接侵入する。
水谷は止まらない。
祓詞を重ねる。
「——阻害・遮断」
流れが断たれる。
成立前に潰す。
次の瞬間。
「——削除・断祈」
紫電の軌跡が走る。
成立したものだけを断つ。
攻守が交錯する。
防ぎ、削る。
その繰り返し。
間合いが消える。
視線がぶつかる。
《……惜しいな》
魯山人が言う。
笑っている。
《あと一口で、完成だった》
本気の声だった。
その執着が、空間を支えていた。
水谷の中で、何かが引っかかる。
その温度。
既視感。
(—— だから滅する)
女の声。
はっきりと響く。
視界が一瞬だけ揺れる。
白い空間。
血の匂い。
黒い刃。
迷いのない一閃。
(—— 終わらせるために)
重なる。
水谷の呼吸が変わる。
躊躇が消える。
「……終わりだ」
刃が深く入る。
貫く。
逃げ場はない。
魯山人が固定される。
動かない。
《……なるほど》
声が落ちる。
《そういう味か》
理解。
評価。
水谷は止まらない。
さらに押し込む。
「……消えろ!」
輪郭が削れる。
存在が薄れる。
《……残らぬか》
最後の言葉。
次の瞬間、すべてが断たれる。
音はない。
だが、終わる。
卓が消える。
皿が消える。
料理が消える。
厨房も、積まれていたものも、すべて消える。
残るのは——
黒い滓。
残穢だった。
床に沈むように広がる。
形は曖昧。
だが確かに存在している。
水谷は八咫刃を下ろす。
腰のポーチから、小さな瓶を取り出す。
透明なガラス。
内側に、微細な刻印。
専用の回収容器。
蓋を外す。
瓶を残穢へ向ける。
引かれる。
黒い滓が、細く収束する。
煙のように揺れながら、瓶の中へ吸い込まれていく。
抵抗はない。
ただ、集まる。
すべてが瓶に収まる。
最後の一滴のような残りが、わずかに遅れて入る。
蓋を閉める。
内部で、沈黙する。
これで終わり。
契約は履行された。
その瞬間。
違和感。
何かが、抜け落ちている。
だが、何かは分からない。
思い出せない。
最初からなかったように、滑る。
(……残らないから、断つ)
女の声。
はっきりと。
水谷は振り返らない。
誰もいない。
だが、確かに“いる”。
感覚だけが残る。
八咫刃が、わずかに震える。
応じている。
何かに。
水谷はそれを見ない。
意味はない。
分からないものは、そのままでいい。
部屋を出る。
廊下に戻る。
空気が変わる。
匂いが戻る。
音が戻る。
だが、味だけがない。
完全な無味。
それが、異様だった。
背後で、音がする。
高峰が動く気配。
意識が戻りつつある。
水谷は振り返らない。
関係ない。
終わった。
それだけだ。
歩き出す。
外へ向かう。
途中で、一瞬だけ足が止まる。
理由はない。
胸の奥に、わずかな引っかかり。
何かを失った感覚。
だが、それが何かは分からない。
思い出せない。
水谷はそのまま歩き出す。
止まらない。
外へ出る。
救急の声。
無線の音。
現実が戻っている。
だが、その中で。
確かに、何かが消えている。
残穢は回収された。
処理は終わった。
それでも——
消えたものだけが、分からないまま残っている。
それが、この結果だった。




