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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第40話 舌の檻 第5章 残された味

 音は、なかった。


 だが確かに、何かが断たれた。


 八咫刃が振り抜かれた瞬間、空間に満ちていた“味”が途切れる。舌に貼りついていた甘味も、奥に残っていた苦味も、すべてが途中で切り落とされる。咀嚼していないのに流れ込んでいた“結果”だけの感覚が、成立しなくなる。食べていないという事実が、ようやく追いついてくる。


 卓の上の料理が揺れる。


 崩れない。


 だが、均衡が崩れている。


 切り口の角度、照りの均一さ、盛り付けの高さ。ほんのわずかな歪みが連鎖する。完成されていたはずのものが、“未完成”へと落ちる。


 北大路魯山人の姿が、そこにある。


 斬られている。


 だが血は出ない。


 代わりに、輪郭が揺らぐ。


 存在そのものが削れている。


《……通したか》


 声が落ちる。


 評価の声だった。


 水谷は構えを解かない。


 刃を下ろさない。


 呼吸は一定。


 だが、身体の奥で何かが軋む。


 八咫刃が、持っていく。


 何かが削られる。


 だが、それが何かは分からない。


 自覚できない。


 ただ、減っている。


《味が落ちる》


 魯山人が言う。


 卓を見下ろす。


《完成が崩れる》


 その声に、初めて苛立ちが混じる。


 水谷は踏み込む。


 距離を詰める。


 魯山人の指先が動く。


 料理が崩れる。


 皿が砕ける。


 破片が形を変え、刃のように迫る。


《食え》


 声が落ちる。


《お前自身を》


 味が襲う。


 甘味が刃となり、苦味が突き刺さる。旨味が圧となり、内側へ押し込まれる。舌を介さず、直接侵入する。


 水谷は止まらない。


 祓詞を重ねる。


「——阻害・遮断」


 流れが断たれる。


 成立前に潰す。


 次の瞬間。


「——削除・断祈」


 紫電の軌跡が走る。


 成立したものだけを断つ。


 攻守が交錯する。


 防ぎ、削る。


 その繰り返し。


 間合いが消える。


 視線がぶつかる。


《……惜しいな》


 魯山人が言う。


 笑っている。


《あと一口で、完成だった》


 本気の声だった。


 その執着が、空間を支えていた。


 水谷の中で、何かが引っかかる。


 その温度。


 既視感。


(—— だから滅する)


 女の声。


 はっきりと響く。


 視界が一瞬だけ揺れる。


 白い空間。


 血の匂い。


 黒い刃。


 迷いのない一閃。


(—— 終わらせるために)


 重なる。


 水谷の呼吸が変わる。


 躊躇が消える。


「……終わりだ」


 刃が深く入る。


 貫く。


 逃げ場はない。


 魯山人が固定される。


 動かない。


《……なるほど》


 声が落ちる。


《そういう味か》


 理解。


 評価。


 水谷は止まらない。


 さらに押し込む。


「……消えろ!」


 輪郭が削れる。


 存在が薄れる。


《……残らぬか》


 最後の言葉。


 次の瞬間、すべてが断たれる。


 音はない。


 だが、終わる。


 卓が消える。


 皿が消える。


 料理が消える。


 厨房も、積まれていたものも、すべて消える。


 残るのは——


 黒い滓。


 残穢だった。


 床に沈むように広がる。


 形は曖昧。


 だが確かに存在している。


 水谷は八咫刃を下ろす。


 腰のポーチから、小さな瓶を取り出す。


 透明なガラス。


 内側に、微細な刻印。


 専用の回収容器。


 蓋を外す。


 瓶を残穢へ向ける。


 引かれる。


 黒い滓が、細く収束する。


 煙のように揺れながら、瓶の中へ吸い込まれていく。


 抵抗はない。


 ただ、集まる。


 すべてが瓶に収まる。


 最後の一滴のような残りが、わずかに遅れて入る。


 蓋を閉める。


 内部で、沈黙する。


 これで終わり。


 契約は履行された。


 その瞬間。


 違和感。


 何かが、抜け落ちている。


 だが、何かは分からない。


 思い出せない。


 最初からなかったように、滑る。


(……残らないから、断つ)


 女の声。


 はっきりと。


 水谷は振り返らない。


 誰もいない。


 だが、確かに“いる”。


 感覚だけが残る。


 八咫刃が、わずかに震える。


 応じている。


 何かに。


 水谷はそれを見ない。


 意味はない。


 分からないものは、そのままでいい。


 部屋を出る。


 廊下に戻る。


 空気が変わる。


 匂いが戻る。


 音が戻る。


 だが、味だけがない。


 完全な無味。


 それが、異様だった。


 背後で、音がする。


 高峰が動く気配。


 意識が戻りつつある。


 水谷は振り返らない。


 関係ない。


 終わった。


 それだけだ。


 歩き出す。


 外へ向かう。


 途中で、一瞬だけ足が止まる。


 理由はない。


 胸の奥に、わずかな引っかかり。


 何かを失った感覚。


 だが、それが何かは分からない。


 思い出せない。


 水谷はそのまま歩き出す。


 止まらない。


 外へ出る。


 救急の声。


 無線の音。


 現実が戻っている。


 だが、その中で。


 確かに、何かが消えている。


 残穢は回収された。


 処理は終わった。


 それでも——


 消えたものだけが、分からないまま残っている。


 それが、この結果だった。

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