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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第41話 鏡の中枢 第1章 祀社の命令

 祀社の奥は、いつも音が少なかった。


 人はいる。気配もある。だが声はほとんどしない。廊下を歩く足音も、扉の開閉音も、どこかで吸われるように薄くなる。建物の構造というより、そこにいる者たちが無意識に音を殺しているのだろう。ここでは余計なものが許されない。感情も、判断も、息遣いですら、主の前では必要最低限まで削られる。


 愛音は、その廊下を歩いていた。


 胸元の翡翠は、以前より濁っている。透明だった頃の名残はまだある。だが、その奥には、幾つもの色が沈んでいた。骨の白。血の暗い赤。肉の濁った桃色。皮膚の灰。夢の墨色。影の黒。それらは混ざりきらず、層になって翡翠の内部に沈殿している。光を受けると、表面だけが鈍く光り、奥の方で何かが脈打つ。


 愛音はそれを気にしていない。


 歩くたびに、胸の奥で何かが動く。だが、それは痛みではない。違和感でもない。すでに身体の一部になっている。あるいは、身体の一部になる途中のものだった。


 骨格。


 循環。


 筋肉。


 境界。


 無意識。


 影。


 必要なものは、少しずつ揃っている。


 だが、まだ足りない。


 祀社の者たちは、そう考えている。愛音自身は、その意味を深く考えない。必要だと言われたから取り込む。主様が望むなら、そうする。それだけで十分だった。


 廊下の奥に、扉がある。


 黒い扉。


 装飾はない。


 だが、そこだけ空気が違う。


 愛音は扉の前で止まる。ノックはしない。呼ばれているなら、入る。呼ばれていないなら、近づくことすら許されない。今日は、呼ばれている。


 扉が内側から開いた。


 中は暗かった。


 完全な暗闇ではない。床の奥に、低い光がある。祭壇のような場所に、青白い線が走っている。機械の配線にも見えるし、古い祭具の紋様にも見える。そこに立つと、現代と儀式の境目が曖昧になる。祀社という組織が、どちらにも属していないことを思い出させる空間だった。


 奥に、主様がいた。


 人の形はしている。白い肌。整った輪郭。感情の薄い目。だが、そこにあるものは人間の意志ではない。もっと奥から出ている。世界の深いところに沈んだ命令が、肉体を通して立っているような存在。


 愛音は膝をつく。


「愛音の事、呼んでくれたの?」


 声は軽い。


 礼儀というより、子供の様だった。


 主は、しばらく何も言わなかった。


 沈黙が落ちる。


 その間、翡翠が一度だけ脈打つ。


 主の視線が、そこへ向く。


《器は、まだ不完全》


 声が響いた。


 口から出ているようにも、部屋全体から落ちているようにも聞こえる。


《骨はある。血は巡る。肉は戻る。皮は境界を保つ。夢は狂気を逃がし、影は分かれる》


 愛音は聞いている。


 だが理解しているかは曖昧だった。


 主の声は続く。


《だが、己を己として保つ中枢がない》


 愛音は首を傾げる。


「じぶん?」


《自我》


 短く告げられる。


《器は力を受ける。だが、力が増えれば形は崩れる。形が崩れれば、祀は宿らない》


 祭壇の光が、わずかに強くなる。


 壁に、幾つもの影が映る。


 それは愛音の影ではない。


 これまで取り込んだ鬼の残響に似ていた。


 測るもの。


 流れるもの。


 癒やすもの。


 拒むもの。


 描くもの。


 見せるもの。


 それらが、翡翠の奥で眠っている。


 眠っているように見えるだけで、実際には眠っていない。内側で、ずっと動いている。愛音という器の中で、それぞれがそれぞれの機能を果たそうとしている。


 だが、それらを統合するものがない。


 骨だけでは立てない。


 血だけでは動けない。


 肉だけでは戻らない。


 皮だけでは守れない。


 夢だけでは逃げられない。


 影だけでは分かれたままになる。


 それらを“自分”と呼ぶための芯が必要だった。


《次の対象》


 主の声が低くなる。


《鏡鬼に堕ちた者》


 部屋の奥に、映像が浮かぶ。


 水面のような揺らぎの中に、古い町並みが見える。資料映像ではない。現実のどこかが、別の層を通して投影されている。狭い路地。古い民家。壊れた研究室のような部屋。壁一面に鏡がある。丸い鏡、割れた鏡、手鏡、古い硝子。そこに映る人の姿が、どれも少しずつ違っている。


 笑っている者。


 泣いている者。


 怒っている者。


 何も感じていない者。


 同じ人間なのに、違う顔。


 主が告げる。


《人間だった頃の名は平賀源内》


 その名が落ちた瞬間、映像の中の鏡が一斉にこちらを向いたように見えた。


 愛音は目を細める。


「それ、集めるの?」


《取り込め》


 答えは短い。


《自我中枢。自己定義の書き換え。状況ごとの最適人格生成。器の崩壊を防ぐ》


 祀社の者が、部屋の端で記録を取っている。筆記ではない。端末に入力している。だが、その顔には感情がない。自分たちが何を作ろうとしているのか、理解しているのかどうかも分からない。


 愛音は立ち上がる。


 胸元の翡翠が、また一度脈打つ。


 内側の層が、わずかに動いた。


 夢がざわめく。


 影が揺れる。


 骨が軋む。


 だが、愛音の表情は変わらない。


「主様がいるなら、わたしは崩れないよ」


 その言葉は、無邪気だった。


 だが、祀社の者たちは誰も笑わなかった。


 主だけが、愛音を見ている。


《主への帰属は、外部定義》


 淡々とした声。


《内側の自己定義とは異なる》


 愛音は少しだけ不満そうにする。


「わかんないけど大事なんだよね?」


《理解は不要》


 主が言う。


《実行せよ》


 それで十分だった。


 愛音は頷く。


「うん」


 その声は明るい。


 まるで散歩に行くような軽さだった。


 だが、部屋の空気は重いままだった。


 祀社が集めている十二体の偉人。


 それは、単なる力の収集ではない。


 器を作っている。


 神を宿すための、壊れない器。


 愛音という少女の形をしたものに、骨を入れ、血を通し、肉を積み、皮で覆い、夢で狂気を逃がし、影で分身を許し、そして次に、自我を据える。


 誰もそれを口にはしない。


 だが、部屋にいる全員が知っている。


 完成に近づいている。


 完成に近づくほど、愛音は愛音ではなくなる。


 あるいは、ようやく“器”になる。


 扉が開く。


 外へ出る前に、愛音は一度だけ振り返った。


「平賀源内って、どんな人?」


 祀社の者の一人が、わずかに顔を上げる。


 答えようとしたが、その前に主が言う。


《多くを名乗った者》


 短い答え。


《多くを作り、多くを演じ、多くを失った者》


 愛音は少し考える。


「ふうん」


 それだけだった。


 興味があるのかないのか分からない声。


 ただ、最後に小さく笑った。


「じゃあ、わたしに入ったら、いっぱいになれるね」


 誰も返事をしなかった。


 その言葉の意味を、愛音だけが軽く扱っていた。


 祀社の者たちは、静かに目を伏せる。


 主は動かない。


 扉の外の廊下は、やはり音が少なかった。


 愛音は歩き出す。


 胸元の翡翠が、濁った光を宿している。


 その奥で、すでに取り込まれたものたちが沈黙している。


 そして、まだ空いている場所がある。


 鏡を置くための場所。


 自分を自分として保つための場所。


 あるいは。


 自分を好きな形へ書き換えるための場所。


 愛音はそれを知らないまま、楽しそうに歩いていく。


 その背中を、祀社の扉が静かに見送った。

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