第41話 鏡の中枢 第1章 祀社の命令
祀社の奥は、いつも音が少なかった。
人はいる。気配もある。だが声はほとんどしない。廊下を歩く足音も、扉の開閉音も、どこかで吸われるように薄くなる。建物の構造というより、そこにいる者たちが無意識に音を殺しているのだろう。ここでは余計なものが許されない。感情も、判断も、息遣いですら、主の前では必要最低限まで削られる。
愛音は、その廊下を歩いていた。
胸元の翡翠は、以前より濁っている。透明だった頃の名残はまだある。だが、その奥には、幾つもの色が沈んでいた。骨の白。血の暗い赤。肉の濁った桃色。皮膚の灰。夢の墨色。影の黒。それらは混ざりきらず、層になって翡翠の内部に沈殿している。光を受けると、表面だけが鈍く光り、奥の方で何かが脈打つ。
愛音はそれを気にしていない。
歩くたびに、胸の奥で何かが動く。だが、それは痛みではない。違和感でもない。すでに身体の一部になっている。あるいは、身体の一部になる途中のものだった。
骨格。
循環。
筋肉。
境界。
無意識。
影。
必要なものは、少しずつ揃っている。
だが、まだ足りない。
祀社の者たちは、そう考えている。愛音自身は、その意味を深く考えない。必要だと言われたから取り込む。主様が望むなら、そうする。それだけで十分だった。
廊下の奥に、扉がある。
黒い扉。
装飾はない。
だが、そこだけ空気が違う。
愛音は扉の前で止まる。ノックはしない。呼ばれているなら、入る。呼ばれていないなら、近づくことすら許されない。今日は、呼ばれている。
扉が内側から開いた。
中は暗かった。
完全な暗闇ではない。床の奥に、低い光がある。祭壇のような場所に、青白い線が走っている。機械の配線にも見えるし、古い祭具の紋様にも見える。そこに立つと、現代と儀式の境目が曖昧になる。祀社という組織が、どちらにも属していないことを思い出させる空間だった。
奥に、主様がいた。
人の形はしている。白い肌。整った輪郭。感情の薄い目。だが、そこにあるものは人間の意志ではない。もっと奥から出ている。世界の深いところに沈んだ命令が、肉体を通して立っているような存在。
愛音は膝をつく。
「愛音の事、呼んでくれたの?」
声は軽い。
礼儀というより、子供の様だった。
主は、しばらく何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
その間、翡翠が一度だけ脈打つ。
主の視線が、そこへ向く。
《器は、まだ不完全》
声が響いた。
口から出ているようにも、部屋全体から落ちているようにも聞こえる。
《骨はある。血は巡る。肉は戻る。皮は境界を保つ。夢は狂気を逃がし、影は分かれる》
愛音は聞いている。
だが理解しているかは曖昧だった。
主の声は続く。
《だが、己を己として保つ中枢がない》
愛音は首を傾げる。
「じぶん?」
《自我》
短く告げられる。
《器は力を受ける。だが、力が増えれば形は崩れる。形が崩れれば、祀は宿らない》
祭壇の光が、わずかに強くなる。
壁に、幾つもの影が映る。
それは愛音の影ではない。
これまで取り込んだ鬼の残響に似ていた。
測るもの。
流れるもの。
癒やすもの。
拒むもの。
描くもの。
見せるもの。
それらが、翡翠の奥で眠っている。
眠っているように見えるだけで、実際には眠っていない。内側で、ずっと動いている。愛音という器の中で、それぞれがそれぞれの機能を果たそうとしている。
だが、それらを統合するものがない。
骨だけでは立てない。
血だけでは動けない。
肉だけでは戻らない。
皮だけでは守れない。
夢だけでは逃げられない。
影だけでは分かれたままになる。
それらを“自分”と呼ぶための芯が必要だった。
《次の対象》
主の声が低くなる。
《鏡鬼に堕ちた者》
部屋の奥に、映像が浮かぶ。
水面のような揺らぎの中に、古い町並みが見える。資料映像ではない。現実のどこかが、別の層を通して投影されている。狭い路地。古い民家。壊れた研究室のような部屋。壁一面に鏡がある。丸い鏡、割れた鏡、手鏡、古い硝子。そこに映る人の姿が、どれも少しずつ違っている。
笑っている者。
泣いている者。
怒っている者。
何も感じていない者。
同じ人間なのに、違う顔。
主が告げる。
《人間だった頃の名は平賀源内》
その名が落ちた瞬間、映像の中の鏡が一斉にこちらを向いたように見えた。
愛音は目を細める。
「それ、集めるの?」
《取り込め》
答えは短い。
《自我中枢。自己定義の書き換え。状況ごとの最適人格生成。器の崩壊を防ぐ》
祀社の者が、部屋の端で記録を取っている。筆記ではない。端末に入力している。だが、その顔には感情がない。自分たちが何を作ろうとしているのか、理解しているのかどうかも分からない。
愛音は立ち上がる。
胸元の翡翠が、また一度脈打つ。
内側の層が、わずかに動いた。
夢がざわめく。
影が揺れる。
骨が軋む。
だが、愛音の表情は変わらない。
「主様がいるなら、わたしは崩れないよ」
その言葉は、無邪気だった。
だが、祀社の者たちは誰も笑わなかった。
主だけが、愛音を見ている。
《主への帰属は、外部定義》
淡々とした声。
《内側の自己定義とは異なる》
愛音は少しだけ不満そうにする。
「わかんないけど大事なんだよね?」
《理解は不要》
主が言う。
《実行せよ》
それで十分だった。
愛音は頷く。
「うん」
その声は明るい。
まるで散歩に行くような軽さだった。
だが、部屋の空気は重いままだった。
祀社が集めている十二体の偉人。
それは、単なる力の収集ではない。
器を作っている。
神を宿すための、壊れない器。
愛音という少女の形をしたものに、骨を入れ、血を通し、肉を積み、皮で覆い、夢で狂気を逃がし、影で分身を許し、そして次に、自我を据える。
誰もそれを口にはしない。
だが、部屋にいる全員が知っている。
完成に近づいている。
完成に近づくほど、愛音は愛音ではなくなる。
あるいは、ようやく“器”になる。
扉が開く。
外へ出る前に、愛音は一度だけ振り返った。
「平賀源内って、どんな人?」
祀社の者の一人が、わずかに顔を上げる。
答えようとしたが、その前に主が言う。
《多くを名乗った者》
短い答え。
《多くを作り、多くを演じ、多くを失った者》
愛音は少し考える。
「ふうん」
それだけだった。
興味があるのかないのか分からない声。
ただ、最後に小さく笑った。
「じゃあ、わたしに入ったら、いっぱいになれるね」
誰も返事をしなかった。
その言葉の意味を、愛音だけが軽く扱っていた。
祀社の者たちは、静かに目を伏せる。
主は動かない。
扉の外の廊下は、やはり音が少なかった。
愛音は歩き出す。
胸元の翡翠が、濁った光を宿している。
その奥で、すでに取り込まれたものたちが沈黙している。
そして、まだ空いている場所がある。
鏡を置くための場所。
自分を自分として保つための場所。
あるいは。
自分を好きな形へ書き換えるための場所。
愛音はそれを知らないまま、楽しそうに歩いていく。
その背中を、祀社の扉が静かに見送った。




