第40話 舌の檻 第4章 食わせる者
境界を越えた瞬間、空気が沈んだ。
湿っているわけではない。乾いているはずなのに、肺に入ると重く絡みつく。呼吸は成立している。だが、取り込んだものが身体へ巡るまでに、わずかな遅延がある。外界ではない。内側の処理が、ここでは正しく流れない。
同時に、味が満ちる。
舌に触れていないはずの味が、結果だけを伴って流れ込んでくる。出汁の奥行き、脂の温度、塩の丸み。どれも整いすぎている。過不足がない。だが、その均一さが異様だった。現実の料理には必ず偏りがある。ここにはそれがない。すべてが“最適解”として存在している。
だが、空間は陰湿だった。
光はある。だが、どこから来ているのか分からない。影の落ち方が曖昧で、奥行きが測れない。天井は高いはずなのに圧迫感がある。壁はあるはずなのに、境界が揺れている。視界の端で、わずかに歪む。
水谷は一歩、踏み込む。
足裏の感触が遅れる。踏んだはずの床が、あとから追いつく。歩くという結果だけが先にあり、感触がそれに従う。順序が逆転している。
視界が開ける。
中央に卓がある。
長い。途切れが見えない。磨き上げられた木の表面に、無数の皿が並んでいる。
料理だった。
どれも美しい。
色彩の配置、盛り付けの高さ、余白の取り方。すべてが計算されている。焼き目は均一で、刺身は透けるほど薄い。蒸し物は崩れず、揚げ物は油を感じさせない。
贅を尽くしている。
材料も、技術も、時間も。
だが、その美しさが、逆に生気を削いでいる。
水谷は卓の脇を進む。
一皿に目が留まる。
白身の刺身。
透明感がある。
だが違う。
繊維が細かすぎる。血の色が均一すぎる。温度が合っていない。
魚ではない。
人間だ。
別の皿。
煮物。
柔らかく崩れている。
だが骨格の配置が人のそれと一致している。関節の向き、切断面。処理が丁寧すぎる。
整えられているからこそ、生々しい。
さらに奥へ進む。
皿の数が増える。
焼き、蒸し、揚げ、干し、発酵。
あらゆる調理法。
素材は同じ。
人間。
味が強くなる。
舌が勝手に反応する。
唾液が溢れる。
だが、その味は自分のものではない。
他者の味覚が、流れ込んでいる。
水谷は舌を噛む。
痛みで感覚を切る。
それでも味は消えない。
むしろ濃くなる。
奥から音がする。
水音。
包丁の当たる音。
規則的だ。
無駄がない。
水谷は視線を向ける。
卓の奥。
開いたままの空間。
厨房のような部屋。
中が見える。
床に、積まれている。
人間だった。
処理されている。
血は抜かれている。
部位ごとに分けられている。
整えられている。
だが、無造作に捨てられている。
使われなかった部分。
選別から外れたもの。
それが、ただ積まれている。
腐敗はない。
だが、生きていた痕跡は残っている。
皮膚の色、骨の形、手の指、顔の輪郭。
それが、まだ残っている。
視線を逸らさない。
水谷はそのまま見る。
その奥から、人が出てくる。
白い着物。
汚れがない。
手も綺麗だ。
だが、その綺麗さが異常だった。
血を扱っているはずなのに、痕跡がない。
動きが静かすぎる。
呼吸の揺れがない。
制御されている。
その人物が皿を持っている。
ゆっくりと卓に置く。
丁寧に。
その瞬間、料理が“完成する”。
味が跳ねる。
空間が締まる。
水谷の喉が動く。
飲み込みたくなる。
だが、飲み込むものはない。
それでも身体が反応する。
舌が、勝手に味を再現する。
「……誰だ」
水谷が言う。
その人物が止まる。
ゆっくりと振り返る。
老人だった。
痩せている。
無駄が削ぎ落とされている。
目は細い。
だが鋭い。
口元にわずかな笑み。
評価する視線。
《食わぬか》
声が落ちる。
空間に直接響く。
《ここまで来て、口にせぬとは》
水谷は答えない。
一歩踏み込む。
八咫刃がわずかに震える。
反応している。
対象を捉えている。
「ここで何をしている」
問いは短い。
老人は首を傾ける。
《味を整えている》
即答。
《乱れたものを正す》
卓を示す。
《粗雑な食、鈍った舌、誤った判断》
言葉が続く。
《すべて歪みだ》
水谷の視線がわずかに揺れる。
「それで人が死ぬ」
短く返す。
老人は笑う。
《死ぬのは、食えぬ者だ》
断言。
《正しい味を理解できぬ者は、いずれ死ぬ》
揺るがない。
《ならば、ここで選別する》
卓と厨房が繋がる。
理解する。
選別、加工、完成。
人を材料として扱う構造。
「……名前は」
問う。
老人が目を細める。
その問いを待っていたように。
《名か》
小さく言う。
そして——
《北大路魯山人という》
名が落ちる。
空間の味がさらに濃くなる。
確定する。
この場の主。
水谷は息を吐く。
喉の奥の異物感を押し流すように。
「……そうか」
それだけ。
理解は十分。
八咫刃を構える。
刃が応じる。
水谷の中で、怒りが形になる。
理由は曖昧。
だが確実にある。
この空間。
この思想。
許せない。
《……いただくか》
魯山人が言う。
水谷を見据える。
舌で測るように。
その視線が全身を舐める。
次の瞬間。
空間が歪む。
料理が崩れ、再構成される。
味が刃のように襲う。
水谷は踏み込む。
祓詞を乗せる。
「——削除・滅祓」
黒い刃が振るわれる。
戦いが、始まる。




