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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第40話 舌の檻 第4章 食わせる者

 境界を越えた瞬間、空気が沈んだ。


 湿っているわけではない。乾いているはずなのに、肺に入ると重く絡みつく。呼吸は成立している。だが、取り込んだものが身体へ巡るまでに、わずかな遅延がある。外界ではない。内側の処理が、ここでは正しく流れない。


 同時に、味が満ちる。


 舌に触れていないはずの味が、結果だけを伴って流れ込んでくる。出汁の奥行き、脂の温度、塩の丸み。どれも整いすぎている。過不足がない。だが、その均一さが異様だった。現実の料理には必ず偏りがある。ここにはそれがない。すべてが“最適解”として存在している。


 だが、空間は陰湿だった。


 光はある。だが、どこから来ているのか分からない。影の落ち方が曖昧で、奥行きが測れない。天井は高いはずなのに圧迫感がある。壁はあるはずなのに、境界が揺れている。視界の端で、わずかに歪む。


 水谷は一歩、踏み込む。


 足裏の感触が遅れる。踏んだはずの床が、あとから追いつく。歩くという結果だけが先にあり、感触がそれに従う。順序が逆転している。


 視界が開ける。


 中央に卓がある。


 長い。途切れが見えない。磨き上げられた木の表面に、無数の皿が並んでいる。


 料理だった。


 どれも美しい。


 色彩の配置、盛り付けの高さ、余白の取り方。すべてが計算されている。焼き目は均一で、刺身は透けるほど薄い。蒸し物は崩れず、揚げ物は油を感じさせない。


 贅を尽くしている。


 材料も、技術も、時間も。


 だが、その美しさが、逆に生気を削いでいる。


 水谷は卓の脇を進む。

 一皿に目が留まる。


 白身の刺身。


 透明感がある。

 だが違う。


 繊維が細かすぎる。血の色が均一すぎる。温度が合っていない。


 魚ではない。


 人間だ。


 別の皿。


 煮物。


 柔らかく崩れている。


 だが骨格の配置が人のそれと一致している。関節の向き、切断面。処理が丁寧すぎる。

 整えられているからこそ、生々しい。


 さらに奥へ進む。


 皿の数が増える。

 焼き、蒸し、揚げ、干し、発酵。

 あらゆる調理法。

 素材は同じ。


 人間。


 味が強くなる。

 舌が勝手に反応する。

 唾液が溢れる。

 だが、その味は自分のものではない。

 他者の味覚が、流れ込んでいる。


 水谷は舌を噛む。


 痛みで感覚を切る。

 それでも味は消えない。

 むしろ濃くなる。

 奥から音がする。


 水音。


 包丁の当たる音。

 規則的だ。

 無駄がない。

 水谷は視線を向ける。


 卓の奥。


 開いたままの空間。

 厨房のような部屋。

 中が見える。

 床に、積まれている。


 人間だった。


 処理されている。

 血は抜かれている。

 部位ごとに分けられている。

 整えられている。

 だが、無造作に捨てられている。


 使われなかった部分。


 選別から外れたもの。


 それが、ただ積まれている。

 腐敗はない。

 だが、生きていた痕跡は残っている。

 皮膚の色、骨の形、手の指、顔の輪郭。

 それが、まだ残っている。

 視線を逸らさない。

 水谷はそのまま見る。

 その奥から、人が出てくる。


 白い着物。


 汚れがない。

 手も綺麗だ。

 だが、その綺麗さが異常だった。

 血を扱っているはずなのに、痕跡がない。

 動きが静かすぎる。

 呼吸の揺れがない。

 制御されている。

 その人物が皿を持っている。

 ゆっくりと卓に置く。

 丁寧に。


 その瞬間、料理が“完成する”。


 味が跳ねる。

 空間が締まる。

 水谷の喉が動く。

 飲み込みたくなる。

 だが、飲み込むものはない。

 それでも身体が反応する。

 舌が、勝手に味を再現する。


「……誰だ」

 水谷が言う。


 その人物が止まる。

 ゆっくりと振り返る。

 老人だった。

 痩せている。

 無駄が削ぎ落とされている。

 目は細い。

 だが鋭い。

 口元にわずかな笑み。

 評価する視線。


《食わぬか》

 声が落ちる。

 空間に直接響く。


《ここまで来て、口にせぬとは》

 水谷は答えない。

 一歩踏み込む。

 八咫刃がわずかに震える。

 反応している。

 対象を捉えている。


「ここで何をしている」

 問いは短い。


 老人は首を傾ける。

《味を整えている》

 即答。


《乱れたものを正す》

 卓を示す。


《粗雑な食、鈍った舌、誤った判断》

 言葉が続く。

《すべて歪みだ》


 水谷の視線がわずかに揺れる。

「それで人が死ぬ」

 短く返す。


 老人は笑う。

《死ぬのは、食えぬ者だ》

 断言。


《正しい味を理解できぬ者は、いずれ死ぬ》

 揺るがない。


《ならば、ここで選別する》

 卓と厨房が繋がる。


 理解する。

 選別、加工、完成。

 人を材料として扱う構造。


「……名前は」

 問う。


 老人が目を細める。

 その問いを待っていたように。


《名か》

 小さく言う。


 そして——

《北大路魯山人という》

 名が落ちる。

 空間の味がさらに濃くなる。


 確定する。

 この場の主。

 水谷は息を吐く。


 喉の奥の異物感を押し流すように。


「……そうか」

 それだけ。


 理解は十分。

 八咫刃を構える。

 刃が応じる。

 水谷の中で、怒りが形になる。


 理由は曖昧。

 だが確実にある。

 この空間。

 この思想。

 許せない。


《……いただくか》

 魯山人が言う。

 水谷を見据える。

 舌で測るように。

 その視線が全身を舐める。


 次の瞬間。


 空間が歪む。

 料理が崩れ、再構成される。

 味が刃のように襲う。


 水谷は踏み込む。

 祓詞を乗せる。


「——削除・滅祓」

 黒い刃が振るわれる。


 戦いが、始まる。

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