第40話 舌の檻 第3章 食われる側
現場は封鎖されていた。
規制線が張られ、マンションの一角だけが外界から切り離されている。赤色灯の回転が壁に反射しているが、その光はどこか鈍く、輪郭がはっきりしない。音も遠い。人のざわめきはあるはずなのに、ここでは薄く削られている。
水谷は規制線を越えた。
止める声は上がらない。
認識されていない。
視界には入っているはずなのに、意識の外へ滑り落ちる。
そういう位置で動いている。
廊下に入った瞬間、違和感が舌に触れた。
味だった。
何も口にしていないのに、味がある。
鉄のような苦味。腐った果実のような甘さ。舌の奥にまとわりつく粘り。
水谷は止まらない。
そのまま進む。
扉は開いていた。
中から音がする。
咀嚼音。
ゆっくりと、だが止まらない。
何かを噛み続ける音。
玄関に入る。
靴が四足、整然と並んでいる。
生活の形だけが残っている。
廊下の壁には、擦れた跡があった。
血ではない。
だが、舐め取られたような痕跡。
味を確かめるために、何度も触れられた跡。
リビングへ入る。
臭いは、すでに味へ変わっていた。
鼻ではなく、舌で感じる。
逃げ場のない味。
その中に、高峰がいた。
壁際に立ち、口元を押さえている。
顔色が悪い。
視線がわずかに泳いでいる。
明らかに正常ではない。
「止まれ!」
高峰が叫ぶ。
水谷に向けてだった。
「一般人は入るな! ここは——」
言葉が途中で途切れる。
喉が鳴る。
唾を飲み込む動き。
だが、それが苦痛に変わる。
水谷は歩みを止めない。
「離れろと言っている!」
高峰が一歩踏み出す。
だが、足元が揺れる。
わずかにバランスを崩す。
本人は気づいていない。
味覚の異常は、すでに感覚の基盤を侵し始めている。
水谷は、その変化を見ていた。
目の動き。
呼吸の乱れ。
唾液の飲み込み方。
正常ではない。
完全に侵される前の段階。
「……祓屋を呼んでいる」
高峰が続ける。
必死に平静を保とうとしている。
「応援は来る。それまで——」
その言葉の途中で、わずかに視線が揺れる。
床に落ちているものへ、目が引かれる。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
だが、確実に。
水谷は、その瞬間を見逃さない。
完全に崩れる前。
戻れなくなる前。
そこを切る。
一歩、踏み込む。
距離を詰める。
高峰が反応する前に、手刀が入る。
首筋。
正確に。
力は最小限。
意識だけを落とす。
高峰の身体が、その場に崩れる。
床に倒れる音は小さい。
水谷はそれを一瞥する。
「……これ以上は無理でだな」
短く言う。
それ以上の感情はない。
リビングの奥。
長男がいた。
床に座り込んでいる。
口元が濡れている。
目は濁っている。
だが、完全には壊れていない。
水谷を見ている。
「……あんた、誰だよ」
声はかすれている。
だが、言葉は通る。
水谷は答えない。
ただ、見る。
長男の手が震えている。
指先が、自分の身体へ向かいかけている。
止めたい。
だが、止まらない。
そういう状態。
「……まずいんだよ」
長男が呟く。
「何食っても……まずい」
笑う。
壊れた笑い。
「でもさ……」
視線が落ちる。
「これだけは……味がする」
その言葉で、すべてが揃う。
理解は十分だった。
救えない。
戻らない。
この段階に来ている。
水谷の中で、何かが揺れる。
感情ではない。
もっと原始的なもの。
不快。
拒絶。
そして——
怒り。
理由は分からない。
だが、確実にある。
長男の顔と、何かが重なる。
見たことのないはずの記憶。
断片。
誰かの声。
《……それ、違う》
微かに響く。
女の声。
水谷の目が、わずかに細くなる。
次の瞬間。
感情が、はっきりと形になる。
「……終わらせる」
静かに言う。
それが、水谷の選択だった。
長男が、目を閉じる。
わずかに息を吐く。
「……ありがとう」
その一言だけだった。
水谷は八咫刃を構える。
漆黒の刃が、空気を裂く。
音はない。
だが、確実に終わる。
踏み込む。
祓詞を乗せる。
「——削除・滅祓」
低い声。
だが、明確に通る。
刃が振り下ろされる。
一瞬。
すべてが止まる。
そして——断たれる。
長男の身体が崩れる。
力が抜ける。
顔は穏やかだった。
苦しみは残っていない。
それだけが、救いだった。
空間の味が、わずかに薄れる。
だが、消えない。
残っている。
原因は、まだ奥にある。
水谷は刃を下ろす。
視線を奥へ向ける。
空間が歪む。
味が濃くなる。
現実が削られる。
境界が、そこにある。
水谷は迷わない。
そのまま、踏み込む。
現実の側から、切り離される。
次の瞬間——
別の空間へ入っていた。




