第40話 舌の檻 第2章 食わせるもの
『……こちら東湾署、生活安全課。応援要請。現場、味覚異常の訴え多数。食物以外の摂取行動を確認。繰り返す、原因不明——』
音声は途中で途切れた。
ノイズが走り、別の回線に切り替わる。
『やめろ! それは食べるものじゃ——』
怒鳴り声。
その直後、乾いた咀嚼音。
骨を噛むような、鈍い音。
通信は、そこで完全に落ちた。
静寂が戻る。
古びたスピーカーから、かすかなノイズだけが残る。
「……派手にやってるな」
中森が受信機のスイッチを切りながら言った。
場所は雑居ビルの一角だった。
外から見れば、古い事務所の一室にしか見えない。扉の横には小さな看板が出ているが、書かれている内容は曖昧で、何を扱っているのか分からない。中に入れば、さらに分からなくなる。棚には見慣れない道具が並び、金属板や黒い棒、見たことのない記号が刻まれた札が整然と置かれている。祓屋の道具を扱う場所だと知っている者だけが、ここを正しく認識できる。
その奥。
普段は閉じられている扉がある。
そこからは、微かに薬品の匂いが漏れていた。
水谷は、それに一瞬だけ視線を向けた。
すぐに逸らす。
中森が気づいていないわけがない。
「…見るな」
軽く言う。
「減るだろ?」
冗談のような口調だった。
だが、意味は分かる。
あの部屋には、千恵がいる。
消滅の呪いに侵され、残穢から生成した薬で、かろうじて繋ぎ止められている存在。
それ以上は、触れない。
水谷も何も言わない。
雇用関係にある以上、踏み込む領域ではない。
契約は明確だった。
残穢を集めること。
それが水谷の役割であり、対価だった。
「で、さっきのな」
中森が椅子に腰掛ける。
足を組み、机に肘を置く。
「残響だ。分かるだろ」
水谷は短く答える。
「……はい」
「ほんとか?」
中森が笑う。
口元だけが歪む。
「最近、外してばっかだろ」
机を指で叩く。
乾いた音が響く。
「祀社のヤツらに全部持ってかれてるじゃねえか」
水谷の瞳が、わずかに揺れる。
だが表情は変わらない。
「……事実です」
言い訳はしない。
「事実で済ませんなよ」
中森が身を乗り出す。
「狩りに行って、横取りされて、はい終わり。そりゃ楽だな」
軽い口調。
だが、逃げ道はない。
「それでいいのか?」
短く問う。
水谷は一瞬だけ間を置く。
「……改善します」
淡々と答える。
だが、それ以上は出てこない。
「改善、ねえ」
中森が鼻で笑う。
「口で言うだけなら簡単だ」
そこで、机の下から布包みを引き出す。
雑に見える動作。
だが扱いは丁寧だった。
テーブルに置く。
空気が変わる。
わずかに重くなる。
「使え」
水谷は視線を落とす。
包みの中身が何かは分かる。
刀。
だが、それだけではない。
中にあるものの密度が違う。
布を解く。
現れたのは、漆黒の刃だった。
光を反射しない。
吸い込む。
両刃。
整っているが、どこか歪んで見える。
水谷はそれを手に取る。
重い。
だが違和感はない。
最初から持っていたかのように馴染む。
「八咫刃だ」
中森が言う。
「名前だけ覚えとけ」
それ以上は説明しない。
水谷も聞かない。
ただ刃を見つめる。
「祀社に持ってかれんのが嫌ならな」
中森が続ける。
「これくらい持っとけ」
軽い口調。
だが、意図ははっきりしている。
「差をつけろ」
水谷の指が、刃をなぞる。
冷たい。
だが、どこか生きている感触がある。
「ただしな」
中森の声が少し落ちる。
「そいつは縁を食う」
短く言う。
「斬るたびに何か持ってくぞ」
軽く続ける。
「記憶か、人との繋がりか、お前にとって意味あるもんだ」
水谷は刃を見下ろす。
何も映らない。
空っぽだ。
「……そうですか」
短く返す。
「問題ありません」
中森が眉を上げる。
「即答か」
笑う。
「理由、聞いていいか?」
水谷は刃を軽く振る。
音はしない。
だが確実に切れている。
「記憶がありませんので」
淡々と答える。
「失う対象を認識できません」
中森が一瞬黙る。
それから肩をすくめる。
「便利だな、それ」
軽く言う。
だが、目は笑っていない。
「まあいい」
手を振る。
「どうせ消える」
一言付け足す。
「気づかねえ形でな」
水谷は小さく頷く。
「現状と変わりません」
乾いた返答。
「……ほんとかね」
中森が小さく呟く。
それ以上は言わない。
「現場はもう崩れてる」
話を戻す。
「長引かせんな。腐るぞ」
水谷は刀を持つ。
そのまま背を向ける。
「分かりました」
扉へ向かう。
「おい、水谷」
呼び止める。
水谷は足を止めるが、振り返らない。
「今度は持って帰ってこい」
中森が言う。
「結果をな」
軽い口調。
だが重い。
水谷は短く答える。
「了解しました」
それだけ。
扉を開ける。
外の空気が流れ込む。
味がしない。
何も感じない空気。
水谷はそのまま出ていく。
扉が閉まる。
小さな音。
だが、確実に区切られる。
中森は一人残る。
机の上の受信機に目を落とす。
咀嚼音の残滓。
「……舌、ねえ」
小さく呟く。
口元が歪む。
「一番簡単で、一番壊しやすい」
椅子にもたれかかる。
奥の部屋の扉に、視線が一瞬だけ向く。
すぐに逸らす。
「さて」
独り言のように落とす。
「どこまで残るか」
空間は再び静かになる。
何もない場所。
だが、その奥に——
確かに、血の気配だけが残っていた。




