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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第40話 舌の檻 第2章 食わせるもの

 『……こちら東湾署、生活安全課。応援要請。現場、味覚異常の訴え多数。食物以外の摂取行動を確認。繰り返す、原因不明——』


 音声は途中で途切れた。

 ノイズが走り、別の回線に切り替わる。

 『やめろ! それは食べるものじゃ——』

 怒鳴り声。


 その直後、乾いた咀嚼音。

 骨を噛むような、鈍い音。

 通信は、そこで完全に落ちた。


 静寂が戻る。


 古びたスピーカーから、かすかなノイズだけが残る。

「……派手にやってるな」

 中森が受信機のスイッチを切りながら言った。

 場所は雑居ビルの一角だった。


 外から見れば、古い事務所の一室にしか見えない。扉の横には小さな看板が出ているが、書かれている内容は曖昧で、何を扱っているのか分からない。中に入れば、さらに分からなくなる。棚には見慣れない道具が並び、金属板や黒い棒、見たことのない記号が刻まれた札が整然と置かれている。祓屋の道具を扱う場所だと知っている者だけが、ここを正しく認識できる。


 その奥。

 普段は閉じられている扉がある。

 そこからは、微かに薬品の匂いが漏れていた。

 水谷は、それに一瞬だけ視線を向けた。

 すぐに逸らす。

 中森が気づいていないわけがない。


「…見るな」

 軽く言う。

「減るだろ?」

 冗談のような口調だった。


 だが、意味は分かる。

 あの部屋には、千恵がいる。


 消滅の呪いに侵され、残穢から生成した薬で、かろうじて繋ぎ止められている存在。

 それ以上は、触れない。

 水谷も何も言わない。

 雇用関係にある以上、踏み込む領域ではない。

 契約は明確だった。

 残穢を集めること。

 それが水谷の役割であり、対価だった。


「で、さっきのな」

 中森が椅子に腰掛ける。

 足を組み、机に肘を置く。

「残響だ。分かるだろ」


 水谷は短く答える。

「……はい」


「ほんとか?」

 中森が笑う。


 口元だけが歪む。

「最近、外してばっかだろ」


 机を指で叩く。

 乾いた音が響く。

「祀社のヤツらに全部持ってかれてるじゃねえか」


 水谷の瞳が、わずかに揺れる。

 だが表情は変わらない。


「……事実です」

 言い訳はしない。


「事実で済ませんなよ」

 中森が身を乗り出す。


「狩りに行って、横取りされて、はい終わり。そりゃ楽だな」

 軽い口調。

 だが、逃げ道はない。


「それでいいのか?」

 短く問う。


 水谷は一瞬だけ間を置く。


「……改善します」

 淡々と答える。

 だが、それ以上は出てこない。


「改善、ねえ」

 中森が鼻で笑う。


「口で言うだけなら簡単だ」

 そこで、机の下から布包みを引き出す。

 雑に見える動作。


 だが扱いは丁寧だった。

 テーブルに置く。

 空気が変わる。

 わずかに重くなる。


「使え」


 水谷は視線を落とす。

 包みの中身が何かは分かる。


 刀。


 だが、それだけではない。

 中にあるものの密度が違う。

 布を解く。


 現れたのは、漆黒の刃だった。

 光を反射しない。

 吸い込む。


 両刃。


 整っているが、どこか歪んで見える。

 水谷はそれを手に取る。


 重い。


 だが違和感はない。

 最初から持っていたかのように馴染む。


「八咫刃だ」

 中森が言う。


「名前だけ覚えとけ」

 それ以上は説明しない。


 水谷も聞かない。

 ただ刃を見つめる。


「祀社に持ってかれんのが嫌ならな」

 中森が続ける。


「これくらい持っとけ」

 軽い口調。


 だが、意図ははっきりしている。

「差をつけろ」


 水谷の指が、刃をなぞる。

 冷たい。

 だが、どこか生きている感触がある。


「ただしな」

 中森の声が少し落ちる。


「そいつは縁を食う」

 短く言う。


「斬るたびに何か持ってくぞ」

 軽く続ける。


「記憶か、人との繋がりか、お前にとって意味あるもんだ」

 水谷は刃を見下ろす。


 何も映らない。

 空っぽだ。


「……そうですか」

 短く返す。


「問題ありません」


 中森が眉を上げる。

「即答か」

 笑う。


「理由、聞いていいか?」


 水谷は刃を軽く振る。

 音はしない。

 だが確実に切れている。


「記憶がありませんので」

 淡々と答える。


「失う対象を認識できません」


 中森が一瞬黙る。

 それから肩をすくめる。


「便利だな、それ」

 軽く言う。

 だが、目は笑っていない。


「まあいい」

 手を振る。


「どうせ消える」

 一言付け足す。


「気づかねえ形でな」


 水谷は小さく頷く。

「現状と変わりません」

 乾いた返答。


「……ほんとかね」

 中森が小さく呟く。

 それ以上は言わない。


「現場はもう崩れてる」

 話を戻す。


「長引かせんな。腐るぞ」


 水谷は刀を持つ。

 そのまま背を向ける。


「分かりました」

 扉へ向かう。


「おい、水谷」

 呼び止める。


 水谷は足を止めるが、振り返らない。


「今度は持って帰ってこい」

 中森が言う。


「結果をな」

 軽い口調。

 だが重い。


 水谷は短く答える。


「了解しました」

 それだけ。


 扉を開ける。

 外の空気が流れ込む。

 味がしない。

 何も感じない空気。


 水谷はそのまま出ていく。


 扉が閉まる。

 小さな音。

 だが、確実に区切られる。


 中森は一人残る。

 机の上の受信機に目を落とす。

 咀嚼音の残滓。


「……舌、ねえ」

 小さく呟く。

 口元が歪む。


「一番簡単で、一番壊しやすい」


 椅子にもたれかかる。

 奥の部屋の扉に、視線が一瞬だけ向く。

 すぐに逸らす。


「さて」

 独り言のように落とす。


「どこまで残るか」

 空間は再び静かになる。

 何もない場所。

 だが、その奥に——


 確かに、血の気配だけが残っていた。

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