第40話 舌の檻 第1章 食べられないもの
最初の通報は、異臭についてだった。
集合住宅の三階にある一室から、ここ数日、変な臭いがする。腐ったようでもあり、焦げたようでもあり、何かが発酵しているようでもある。管理会社にそう連絡したのは、隣室に住む老女だった。最初は生ゴミを溜めているのだろうと思ったらしい。夏場でもないのに台所の排水口から臭いが上がることはあるし、若い家族が住む部屋なら多少の生活音や匂いは仕方ない。そう自分に言い聞かせて、二日ほど我慢したという。
だが、三日目の夜から音が混じるようになった。
咀嚼音だった。
壁の向こうで、何かを噛んでいる。最初は食事だと思った。夕飯が遅い家なのだろうと納得しようとした。だが、音が長い。夜の九時に始まり、十一時を過ぎても続き、日付が変わっても止まらない。硬いものを噛む音。湿ったものをすする音。骨に似たものを歯で割るような、乾いた音。それが、間を置きながら続く。
老女はテレビの音量を上げた。だが、壁の向こうの音は消えなかった。むしろ、テレビの笑い声の裏に重なって聞こえるせいで、余計に耳に残った。翌朝、管理会社へ連絡した。室内で倒れているかもしれない。そういう言い方をした。実際には、倒れているならあんな音はしないと思っていたが、他に説明のしようがなかった。
管理会社の担当者が鍵を持って訪ねたのは、その日の午後だった。インターホンを押しても返事はない。だが、中から物音はした。人がいる。担当者は扉越しに何度も呼びかけた。返事はなかった。代わりに、ぴちゃり、という音がした。水をこぼしたような音ではない。もっと粘りのある、濡れたものが床に落ちる音だった。
警察に連絡が入り、制服警官二人が到着した。玄関前の廊下には、すでに近隣住民が数人出てきていた。全員が口元を押さえている。異臭は、扉の外にまで漏れていた。生ゴミとは違う。腐敗臭とも少し違う。そこに妙な甘さが混じっている。甘いのに吐き気を催す匂いだった。
警官が合鍵で扉を開けた。
その瞬間、廊下にいた全員が一歩下がった。
中から流れ出てきた空気は、重かった。臭いというより、口の中に入り込んでくるような気配があった。舌の上に、知らない味が乗る。錆びた鉄のような、腐った果物のような、焦げた砂糖のような味。誰かがその場で吐いた。
警官の一人が、玄関で足を止めた。靴が四足、きちんと並んでいる。父親、母親、娘、そして息子。家族の形だけが、そこにはまだ残っていた。廊下の奥から、また音がした。
噛んでいる。
確かに、誰かが何かを噛んでいる。
「警察です。入ります」
返事はない。
警官二人が奥へ進む。廊下の壁には、手の跡があった。血ではなかった。茶色く乾いた、何かを塗りつけたような跡。だが、そこに鼻を近づけるまでもなく、口の中に味が浮かんだ。味噌のような、肉の脂のような、土のような、ありえない混ざり方をした味だった。
リビングの扉は半分開いていた。
中は、食卓だった。
家族四人が使っていたと思われるテーブルには、皿が並んでいる。箸もある。コップもある。生活の延長として見れば、夕食の途中に見える。だが、皿に載っているものは食事ではなかった。
壁紙。
畳の切れ端。
割れた陶器。
観葉植物の土。
そして、何か赤黒いもの。
それが、きれいに盛りつけられていた。
警官の一人が、言葉を失う。
テーブルの向こうに、女が座っていた。母親らしき人物だった。背筋を伸ばし、箸を持ち、皿の上のものを口へ運んでいる。顔色は灰色に近い。目は焦点を失っている。それでも、口だけは動いている。咀嚼。嚥下。咀嚼。嚥下。機械のように繰り返している。
その隣で、少女が床に座り込んでいた。壁を舐めている。爪で壁紙を剥がし、口へ入れている。唇が切れ、歯茎から血が出ている。それでも止まらない。壁を、食べている。
父親は倒れていた。動いていない。だが、その周囲に残された跡を見る限り、倒れる直前まで何かを食べていた。右手には塩の袋が握られている。床には白い粒が散らばっていて、その一部は血と混じって泥のようになっていた。口の周りは白く乾き、舌が腫れている。
そして、部屋の奥に、長男がいた。
二十代前半。痩せた青年だった。頬がこけ、目の下が黒い。だが、口元だけが異様に濡れている。彼は床に座り、何かを抱えていた。最初、それが何なのか警官には分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない。
次の瞬間、青年が顔を上げた。
「……まずい」
声はかすれていた。
「全部、まずい」
そう言って、彼は抱えていたものに顔を戻す。
警官が叫んだ。
その声で、母親がこちらを見る。少女も振り返る。だが、反応が遅い。人間としての反応ではない。食べることを邪魔された生き物の反応だった。
警官の一人が、無線で応援を呼ぶ。もう一人が青年に近づこうとした。だが、数歩進んだところで膝をついた。口元を押さえる。吐き気ではない。空腹だった。
「……なんだ、これ」
彼は自分の手を見た。
手袋越しの指先が、妙に美味そうに見えた。ありえない感覚だった。分かっている。自分の指だ。食べ物ではない。だが、舌がそう判断しない。脳が拒絶しても、味覚が勝手に意味を上書きする。今すぐ噛みたい。口に入れたい。そういう衝動が、胃の奥からせり上がってくる。
警官は歯を食いしばり、自分の手を壁に押しつけた。
痛みで意識を戻す。
その間にも、長男は食べ続けている。
「やめろ!」
叫びは、ほとんど悲鳴だった。
青年の手が止まる。
ゆっくりと顔を上げる。
その目には、涙が溜まっていた。
「やめたいよ」
言葉は、意外なほどはっきりしていた。
「でも、味がするんだ」
青年は笑った。泣きながら笑っていた。
「これだけ、ちゃんと味がするんだよ」
その瞬間、警官は理解してしまう。
青年は狂っている。
だが、完全に狂っているわけではない。
自分が何をしているのか、分かっている。
分かった上で、止められない。
その事実が、部屋の空気をさらに重くした。
救急が呼ばれ、応援が到着し、マンションの一角は封鎖された。だが、室内に入った者の多くが同じ症状を訴えた。水が苦い。唾液が腐っている。自分の皮膚が焼き菓子のように感じる。床の埃に甘みを感じる。塩を舐めたい。口に入れたい。食べてはいけないと分かっているものほど、強く味が立つ。
父親は死亡が確認された。
母親は搬送中に心停止した。
娘は意識不明のまま病院へ運ばれたが、胃の中から紙片と塗料片が大量に見つかった。助かる見込みは薄いとされた。
長男だけが、現場に残った。
拘束されていた。
だが、彼は暴れなかった。
ただ、口を閉じて泣いていた。
「もう、食べたくない」
その声を聞いた者は、誰も返事ができなかった。
事件の報告は、通常の家庭内殺傷事件としては処理できなかった。薬物も疑われた。毒物も疑われた。だが、それだけでは説明できない。味覚の異常が、現場へ入った者にまで一時的に広がったからだった。
そして、同じ頃。
市内の別の場所でも、似た通報が入っていた。
水だけを飲めなくなった女が脱水で倒れた。
塩だけを食べ続けた老人が死亡した。
金属片を飴のように舐めていた男が、口内を裂き、失血した。
誰もが、自分の味覚を信じていた。
そして、その味覚に殺されていた。
舌が狂う。
それだけで、人は食べることも、生きることも失う。
高峰修一は報告を見て、しばらく黙っていた。
写真の中の食卓は、どこにでもある家庭のものだった。そこに並んでいるものだけが、食事ではない。だが、彼らにはそう感じられていた。
それが一番、救いがなかった。
高峰は資料を閉じる。
この案件は、警察だけでは届かない。
そう判断するのに、時間はかからなかった。




