第39話 通さないもの 第5章 残された熱
白い天井だった。
均一な光が、揺れずに降りている。影は薄く、奥行きは正確に測れる。歪みはない。意味はそのまま届く。現実だった。
梓は、目を開けたまま動けなかった。
呼吸はできる。胸は上下している。だが、それだけだった。指先が動かない。腕も、足も、首も、意識を向けても反応しない。力を入れる、という行為が成立しない。
感覚はある。
だが遠い。
身体が、自分から切り離されたように感じる。
時間の流れも曖昧だった。
目を閉じていたのか、開けていたのか、その境目すら分からない。ただ、気がつけば同じ天井を見ている。
横で機械が鳴っている。
一定のリズム。
それだけが、現実に繋がっている証だった。
「……起きているな」
声がした。
扉の音は聞こえなかった。足音もない。だが、そこにいる。
中森だった。
いつもと変わらない姿。整えられた服。崩れない表情。病室という場所に、まるで馴染んでいない。
ベッドの脇に立ち、梓を見下ろす。
「意識はある。だが、動かない」
淡々と確認する。
「想定通りだ」
梓は声を出そうとした。
だが、喉が動かない。
空気は通る。だが、言葉にならない。
中森はそれを見て、小さく頷く。
「無理に話すな。今の状態では、声も結果に至らない可能性がある」
椅子に腰を下ろす。
しばらく、何も言わずに梓を見ていた。
「……借りは返したな」
唐突に言う。
梓の瞳が、わずかに揺れる。
「原澤の件だ」
短い言葉。
それだけで、意味は十分だった。
行方不明。
戻らない可能性。
あの時、何もできなかった事実。
その重さ。
「今回は、お前が踏み込んだ」
中森は静かに言う。
「止めた。完全ではないが、あの場は潰した」
わずかに間を置く。
「それでいい」
評価ではない。
確認だった。
梓の胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
あの時の熱。
消えていない。
まだ、残っている。
「……見たな」
中森の声が低くなる。
「触れたとも言う」
視線が鋭くなる。
「お前がやったことは、遮断でも防御でもない」
指先で空気をなぞる。
「処理の主体が違う」
わずかに笑う。
「世界側だ」
梓は、その言葉を理解できない。
だが、否定もできない。
「“転位侵界”」
その言葉が落ちる。
梓は知らない。
だが、その音に、身体の奥が反応する。
あの時と同じ感覚。
言葉より先に、現象がある。
「本来、使えるものではない」
中森は断言する。
「条件がある。単に追い詰められただけでは足りない」
視線が、わずかに細くなる。
「全滅の直前だ。場そのものが崩壊しかけている状態。誰一人助からないと確定した時にしか、あれは開かない」
静かな声だった。
「だから、二度目だ」
梓の瞳が、微かに揺れる。
「偶然ではない。お前は二回、そこに触れている」
中森は続ける。
「普通は一度で終わる。二度目は来ない。来る前に壊れる」
言葉が、少しだけ重くなる。
「だが、お前は残った」
そこで、初めてわずかな感情が混じる。
「……使いこなす可能性がある」
それは期待ではない。
警戒だった。
「だが、それが何を意味するか、分かっているか?」
梓は答えられない。
中森は、ポケットから小さなケースを取り出す。
中に、透明なアンプルが入っている。
光にかざすと、ゆっくりと揺れる。
「これで抑えられる」
ベッドの脇に置く。
「完全には戻らない。だが、最低限の動作は可能になる」
そこで言葉を切る。
視線を梓へ戻す。
「代償は決まっていない」
静かに言う。
「何が失われるかは、その時次第だ」
間が空く。
「記憶かもしれない。感情かもしれない。身体の一部かもしれない」
さらに短く続ける。
「命のこともある」
梓の胸が、わずかに上下する。
その事実だけが、現実として落ちる。
「だから、使うな」
即答だった。
「少なくとも、自分で選んで使うものではない」
視線が鋭くなる。
「次も同じ条件が揃えば、勝手に開く。その時に何が残るかは保証しない」
椅子から立ち上がる。
「……だが」
わずかに間が空く。
「今回は、生き残った」
それだけを残す。
扉へ向かう。
振り返らない。
「薬代は後で請求する。利息もつける」
いつもの調子だった。
そのまま、出ていく。
静寂が戻る。
機械音だけが続く。
梓は、天井を見たまま動けない。
だが、胸の奥には残っている。
あの熱が。
小さく。
確かに。
消えていない。
それが何かは分からない。
だが——
もう、知らなかった頃には戻れない。
それだけが、はっきりしていた。




