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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第39話 通さないもの 第4章 奪い合い

 こう着状態の中、新たに空間が裂けた。


 外側からではない。内側からでもない。定義の外側。どちらにも属さない位置に、細い亀裂が走る。光ではない。だが、そこだけが現実から外れている。


 梓が、そこに立っていた。


 音はない。着地もない。ただ、最初からそこにいたかのように、境界の上に存在している。


 視線が、全体をなぞる。倒れている人間、通らない空間、拘束された愛音、距離を取る水谷、そして中心の影。


「……状況、把握しました」


 声は静かだった。


 感情は乗っていない。だが、遅れたことへの認識はある。


 八鍵を構える。量子暗号札を一枚、指先で弾く。発動の準備は整っている。だが、すぐには使わない。


 まず、定義する。


「外部干渉拒絶型。義を基準とした選別」


 影は、梓を見た。


 評価している。


 新たな侵入者を。


《通さぬ》


 同じ言葉。


 だが、先ほどまでとわずかに違う。梓に対しては、ただ拒絶するだけでは足りないと理解している。


 梓は一歩も動かない。


 動けば、その結果が遮断される。ならば、動かないまま処理する。


「通す必要はありません」


 静かに言う。


「空間仕様を書き換えます」


 八鍵の先端が、淡く光る。


 祓詞を発動させる。


 梓は息を吸う。


 声は低く、だが明確に通る。


「祓詞……遮断・絶界」


 空間が、わずかに沈む。


 外側でも内側でもない、別の層へとずれる感覚。


 影の外殻が、初めて微細に軋む。


《……何を》


 問いは途中で止まる。


 発動の瞬間、音が消えた。


 正確には、音が成立しなくなる。振動はある。だが、それが“音として認識される結果”が消される。視界も同じだった。動きはある。だが、その動きが“変化として成立しない”。


 拒絶ではない。


 無効化でもない。


 “ 空間仕様を書き換える”という扱い。


 影の外殻に走っていた緊張が、消える。


 拒絶の対象が、存在しないものになる。


《……成立、していない》


 遮断・絶界の発動以降、空間の在り方が変わっていた。拒絶は消えていない。だが、絶対でもない。発動するたびに、その結果が“成立していない”扱いにされる。通さない、という思想そのものと、空間仕様を書き換える祓詞が拮抗している。


 その負荷は、すべて梓に返っていた。


 呼吸が浅い。額に汗が滲む。八鍵を支える腕が、わずかに震えている。祓詞は成立している。だが、それを維持するための演算を、身体が受け止めきれていない。


「……まだ、いけます」


 誰に言うでもなく、梓は呟いた。


 目の前の影——上杉謙信の残響は、確実に揺らいでいる。拒絶が通らない。防御が成立しない。義を基準とした選別が、空間仕様を書き換える処理で相殺されている。


 修正する。


 影の外殻が軋む。


《……歪み》


 声が揺れる、次の手立てが無いまま拮抗した力が相殺を続けた。


 最初に崩れたのは、人間だった。


 救急隊員の一人が、処置の最中に崩れ落ちる。胸郭が動かない。酸素は供給されているはずなのに、肺へ届かない。息を吸っているのに、呼吸として成立していない。喉が鳴り、口が開いたまま、空気だけが空回りする。


 別の隊員が叫ぶ。だが声が届かない。音として外へ出ていない。喉は震えている。空気も動いている。だが“声になる”という結果だけが、消されている。


 大学生の一人が、担架の上で痙攣する。目が見開かれ、涙が滲む。助けを求めているのは分かる。だが、手が動かない。指先がわずかに震えるだけで、掴むという行為に至らない。


 通らない。


 すべてが、途中で止まる。


《通さぬ》


 上杉謙信の声が、静かに落ちる。


 怒りもない。殺意もない。ただ、規律としてそこにある。


《義を乱すものは、通さぬ》


 その言葉が、この場のすべてを支配していた。


 愛音は、地面に叩きつけられていた。


 立てない。


 起き上がろうとするたび、身体が途中で止まる。筋肉は動いている。骨も軋んでいる。だが、起き上がるという結果が成立しない。翡翠が脈打ち、内部の力が暴れる。それでも、外へ出る前に押し戻される。


「……っ」


 声にならない音が漏れる。


 怒りが、確実に溜まっている。


 だが、それすら形にならない。


 水谷も、同じだった。


 踏み込もうとする。


 だが、足が出ない。


 動作の途中で、切断される。


 クナイを投げる。


 だが、途中で軌道が消える。


 狙いも、速度も、精度も問題ではない。


 “当たる”という結果が、存在しない。


「……クソが」


 低く吐き捨てる。


 それしかできない。


 力でどうにもならない領域。


 条件そのものが、封じられている。


 そして、梓。


 彼女もまた、限界に近かった。


 遮断・絶界を展開している。


 だが、押し返されている。


 青白い線が、前へ進まない。


 成立しない。


 祓詞が届かない。


 通らない。


「……まだ、です」


 息が荒い。


 視界が滲む。


 それでも、切らない。


 ここで切れば、全てが終わる。


 目の前で、人が死ぬ。


 助けられない。


 それが分かっている。


 救急隊員の一人が、動かなくなる。


 目が開いたまま、焦点が合わない。


 もう戻らない。


 大学生の呼吸も、浅くなる。


 止まりかけている。


 時間がない。


 それでも——何も通らない。


《通さぬ》


 再び、声が落ちる。


 それだけで、空気が硬くなる。


 絶対の拒絶。


 侵されないという意思。


 守るという名の、排除。


 梓の膝が崩れる。


 もう、持たない。


 祓詞も。


 身体も。


 思考も。


 ここで終わる。


 そう理解する。


 逃げ場はない。


 全滅する。


 それが現実として、目の前にある。


 その瞬間だった。


 胸の奥に、熱が灯る。


 小さく。


 だが、確実に。


 燻るような熱。


 思い出す。


 あの時。


 果心居士と対峙した時。


 同じ熱。


 同じ感覚。


 だが、今回は違う。


 広がる。


 止まらない。


 自分の中からではない。


 もっと深いところから。


 “触れてはいけない何か”に触れた時のような感覚。


 梓は、息を呑む。


 怖い。


 だが、止められない。


 止めれば、全てが終わる。


 視界の端で、愛音が叩き潰される。


 水谷が膝をつく。


 救急隊員が、もう動かない。


 大学生の胸が、完全に止まりかけている。


 ——ここで終わる。


 その確信と同時に。


 熱が、弾ける。


 梓の口が開く。


 自分の意思ではない。


 だが、言葉が出る。


「……」


 音にならない。


 だが、世界が応じる。


 空間が沈む。


 水谷が顔を上げる。


 愛音の瞳が、わずかに揺れる。


 上杉謙信の外殻が、初めて軋む。


《……何を》


 問いが止まる。


 続かない。


 次の瞬間。


 言葉が、落ちる。


「……断界・反照」


 梓は、その意味を知らない。


 だが、確かに発動する。


 音が消える。


 正確には——


 “結果が成立しなくなる”。


 呼吸が、通る。


 止まっていた肺が、動く。


 声が、届く。


 叫びが、音になる。


 上杉謙信の拒絶が発動するたび、その結果が消える。


 通さない。


 だが——通っていない。


 拒絶が、成立しない。


《……義が》


 上杉謙信の声が揺れる。


《我が義が……通らぬ……》


 愛音の拘束が解ける。


 水谷の足が動く。


 救急隊員の処置が、初めて“成立する”。


 空気が戻る。


 だが——


 梓の身体が、崩れる。


 限界だった。


 この力は、使っていいものではない。


 身体が理解している。


 だが、止まらない。


 止められない。


「……今です……」


 かすれた声。


 それでも、届く。


 水谷が動く。


 愛音も動く。


 同時だった。


 核へ。


 一直線に。


 今なら通る。


 拒絶は成立していない。


 刃が届く。


 その直前。


 交錯する。


 クナイと大鎌。


「引け」


「やだ」


 短い言葉。


 だが、譲らない。


 ほんの一瞬。


 わずかな差。


 先に入ったのは——


 愛音だった。


 大鎌が、核を貫く。


 音はない。


 だが、確実に終わる。


 上杉謙信が止まる。


 今度は、彼が固定される。


《……義》


 最後の言葉。


 揺らぎだけを残して。


 次の瞬間。


 翡翠が脈打つ。


 強く。


 深く。


 引き込む。


 すべてが沈む。


 吸収は完了する。


 翡翠の色が濁る。


 重く。


 深く。


 愛音が、息を吐く。


「……取った」


 満足。


 それだけ。


 水谷が舌打ちする。


「……全部持ってくかよ」


 だが追わない。


 理解している。


 今は奪えない。


 梓が、その場に崩れる。


 八鍵が落ちる。


 呼吸が乱れる。


 意識が飛ぶ。


 断界・反照が消える。


 空間が戻る。


 だが——


 もう遅い。


 結果は出ている。


 救急隊員の何人かは、動かない。


 大学生も、全員は戻らない。


 助かった者もいる。


 だが、全員ではない。


 愛音が振り返る。


 梓を見る。


 少しだけ首を傾げる。


「惜しかったね」


 そのまま消える。


 水谷も去る。


 あとに残るのは、静寂と——


 生き残った者と、死んだ者だけだった。


 梓は、動かない。


 ただ、かすかに呼吸だけが残っていた。


 そして、その胸の奥には——


 まだ、あの熱が残っていた。

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