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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている
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番外編1 侵されるもの 第2章 蝕まれるもの

 力を手に入れてから、藤田は変わった。


 いや。


 変わったのではない。


 もともと心の奥底にあったものが、力を得たことで隠せなくなっただけだった。


 組の中で、藤田に話しかける者はいない。


 話しかけられるのは、命令される時だけ。


「おい」


 低い一言で、若い組員が飛び上がるように振り返る。


「はい!」


「返事が遅ぇ」


 藤田は吸っていた煙草を、そのまま相手の胸へ押しつけた。


「熱っ!」


 組員が悲鳴を上げる。


「うるせぇ」


 腹を蹴る。


 男は床へ転がった。


「立て」


 痛みに顔を歪めながら立ち上がる。


「ありがとうございます!」


「何がだ」


「ご、ご指導……ありがとうございます」


 藤田は鼻で笑った。


「犬は犬らしく吠えてりゃいいんだよ」


 事務所の空気が凍る。


 誰も助けない。


 誰も目を合わせない。


 逆らえば、自分が消される。


 それを全員が知っていた。


 その時だった。


 若頭が奥の部屋から姿を現した。


 藤田の表情が、一瞬で変わる。


「若頭!」


 深々と頭を下げる。


 さっきまでの威圧的な態度は跡形もない。


「先日の件、無事に片付きました!」


「そうか」


 若頭は軽く頷くだけだった。


 その一言だけで、藤田は満面の笑みを浮かべる。


「ありがとうございます!」


「これからも命懸けで働かせてもらいます!」


 若頭が去るまで、頭を下げ続ける。


 姿が見えなくなると、小さく舌打ちした。


「……偉そうに」


 もちろん、その声は誰にも聞こえない。


 聞こえるようには言わない。


 その程度の度胸しか持ち合わせていなかった。


 夜。


 組を出ると、スマートフォンが震えた。


《NEXT TARGET》


 画面には男の顔写真。


 見覚えがない。


 敵対組織でもない。


 一般人だった。


「……何だ、こいつ」


 画面を閉じる。


 だが、すぐにまた震えた。


《EXECUTE》


 無視する。


《EXECUTE》


 再び表示される。


「しつけぇな」


 ポケットへ押し込んだ。


 その時、恋人から電話が入る。


『今日も遅い?』


「もう帰る」


『大輔がね、ずっと待ってるよ』


 電話の向こうで、子供の笑い声が聞こえる。


『パパまだー?』


 藤田の表情が、少しだけ緩んだ。


「ああ。すぐ帰る」


 短く答えて電話を切る。


 静かになった夜道。


 もう一度、スマートフォンが震える。


《EXECUTE》


 画面の文字が、今度は赤く滲んで見えた。


 その瞬間だった。


 頭の奥で、誰かが囁く。


《消せ。》


《邪魔だ。》


《使え。》


 藤田は思わず立ち止まる。


「……うるせぇ」


 耳を押さえる。


 周囲を歩く通行人が、不審そうな視線を向けて通り過ぎていく。


 その中の一人を見た瞬間、スマートフォンの写真と顔が重なった。


《TARGET CONFIRMED》


 藤田の親指が、勝手に画面へ伸びる。


(違う。)


(俺じゃねぇ。)


(止まれ。)


 身体は動かない。


 指だけがゆっくりと、《EXECUTE》へ近づいていく。


 あと数センチ。


 その時だった。


 もう一度、恋人から着信が入る。


 画面が切り替わる。


 子供の笑顔の写真が表示された。


 その一瞬だけ。


 藤田の指は止まった。


 頭の奥の声も、静かに消えた。


 だが、それは本当に一瞬だけだった。


  ◇


 翌朝。


 藤田は、自分がいつ家へ帰ったのか思い出せなかった。


 テーブルには朝食が並び、恋人が台所へ立っている。


「おはよう」


「ああ」


 それだけ返す。


 昨夜の記憶が曖昧だった。


 頭の奥に霧がかかっている。


 スマートフォンを開く。


 画面には昨夜の文字は残っていない。


 履歴もない。


 だが、一つだけ違和感があった。


 ニュース速報。


 昨夜、自宅近くで男性が突然倒れ、死亡。


 原因不明。


 藤田は記事を閉じた。


 胸は痛まない。


 ただ、喉の奥が熱くなる。


 その熱は、恐怖ではなかった。


 どこか満たされるような感覚だった。


(……なんだ、この感じ。)


 理由は分からない。


 分からないまま、その感覚だけを身体が求め始めていた。


 昼過ぎ。


 事務所へ戻る。


 若頭が不機嫌そうに煙草を揉み消した。


「藤田」


「はい」


「最近、勝手な動きが増えてるらしいな」


「そんなことありません」


「本当か?」


 藤田は笑顔を作る。


「もちろんです」


 その瞬間。


 スマートフォンが震えた。


《TARGET UPDATED》


 画面に表示された顔写真を見て、藤田の表情が止まる。


 若頭だった。


「……は?」


 思わず声が漏れる。


《EXECUTE》


 文字が滲む。


 赤く。


 脈打つように。


「ふざけんな……」


 画面を閉じる。


 しかし、また開く。


《EXECUTE》


 閉じる。


《EXECUTE》


 閉じる。


《EXECUTE》


 頭の奥で声が響く。


《消せ。》


《上位個体。》


《不要。》


《更新。》


「違う……!」


 藤田は頭を抱えた。


 若頭が眉をひそめる。


「どうした?」


「いや……何でも……」


 汗が止まらない。


 心臓が速い。


 指先だけが異様に冷たい。


《EXECUTE》


 親指が震える。


 押すな。


 押したくない。


 そう思うほど、身体は逆らわなくなっていた。


 気づけば、画面に触れていた。


 その瞬間。


 胸の奥で何かが切れた。


 若頭が言葉を止める。


 表情が固まる。


 次の瞬間、その場へ崩れ落ちた。


 事務所が騒然となる。


「若頭!」


「救急車!」


「何があった!」


 誰も理由が分からない。


 藤田だけが立ち尽くしていた。


 耳鳴り。


 視界が白く染まる。


 そして。


 胸の奥を突き抜けるような快感が走った。


 これまで味わったことのない陶酔。


 脳の奥を直接撫でられるような甘さ。


「……ぁ」


 思わず笑みが漏れる。


 自分でも止められない。


(気持ちいい。)


 その感情に気づいた瞬間、自分自身を恐れた。


(俺は……何を。)


 だが、恐怖は長く続かなかった。


 快感が、それを飲み込んだからだ。


 その夜から、表示される対象は変わった。


 組員。


 会社員。


 通学途中の学生。


 配送員。


 見知らぬ老人。


 画面は無差別に名前を並べる。


《NEXT TARGET》


《NEXT TARGET》


《NEXT TARGET》


 藤田は最初こそ抵抗した。


 画面を閉じる。


 電源を切る。


 スマートフォンを捨てようとする。


 だが、気づけば手元へ戻っていた。


 そして一度従うたびに、あの快感が身体を満たす。


 酒より強い。


 煙草より深い。


 何にも代えられない幸福感。


 もう、後戻りはできなかった。


 鏡を見る。


 そこには、自分の顔が映っている。


 しかし笑っているのは、自分ではなかった。


 ほんのわずかに遅れて。


 鏡の中の”何か”が、先に笑っていた。


 異変に最初に気づいたのは、恋人だった。


「ヒロくん……」


 夕食の席。


 味噌汁から湯気が立ち上る。


 子供は無邪気にテレビを見ながら笑っていた。


 その笑い声だけが、この部屋で唯一、人間らしい音だった。


「今日ね」


 恋人が恐る恐る口を開く。


「昼間、警察の人が来たの」


 藤田の箸が止まる。


「……何しに」


「この近くで亡くなった人の聞き込みだって……」


「そうか」


 それだけ答え、食事を続ける。


 以前なら。


 「何か聞かれたか」


 「怖くなかったか」


 そう続けていた。


 だが今は違う。


 どうでもよかった。


 それよりも、頭の奥では別の声が響いている。


《NEXT TARGET》


《EXECUTE》


《EXECUTE》


 耳を塞いでも聞こえる。


 目を閉じても浮かぶ。


 恋人が静かに箸を置いた。


「最近……笑わなくなったね」


 藤田は返事をしない。


「大輔も心配してる」


 その名前だけは、かろうじて胸に届いた。


 視線を子供へ向ける。


 無邪気にブロックを積み上げている。


「パパ見て!」


 笑顔だった。


 その笑顔だけは、まだ守りたいと思えた。


 その時。


 スマートフォンが震えた。


 嫌な予感がした。


 見たくなかった。


 それでも画面を開く。


 《TARGET IDENTIFIED》


 表示された写真を見た瞬間、呼吸が止まった。


 そこに映っていたのは──


 恋人だった。


「……やめろ」


 思わず声が漏れる。


 画面が切り替わる。


 今度は子供の写真。


《NEXT TARGET》


「違う!」


 椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。


 恋人が驚いて振り返った。


「ヒロくん?」


「見るな!」


「え?」


「俺を見るな!」


 藤田は頭を抱えて叫ぶ。


 画面の文字が赤く滲む。


《HOST REJECTION DETECTED》


《FORCED INTEGRATION》


 頭蓋の内側で何かが蠢く。


 骨を削るような痛み。


 眼球の奥で、別の視界が開いていく。


 目の前の家族が、人ではなく情報の塊に見えた。


 輪郭。


 骨格。


 脈拍。


 熱。


 すべてが数値へ変換される。


(違う。)


(やめろ。)


(この二人だけは。)


 必死に抵抗する。


 しかし、身体は少しずつ自分のものではなくなっていた。


 鏡を見る。


 映っているのは藤田宏和。


 だが、瞬きをしたのは鏡の中が先だった。


 口角がゆっくりと持ち上がる。


 藤田は笑っていない。


 それでも鏡の中の”自分”は笑っていた。


「……もう少しだ」


 その声は、自分の口から出ている。


 だが、自分の意思ではない。


「あと少しで、お前は完全に器になる」


 藤田は鏡を殴りつけた。


 ガラスが砕ける。


 血が流れる。


 それでも痛みを感じない。


 鏡の破片一枚一枚に、自分ではない笑顔が映っていた。


 そして、その夜。


 中森の端末へ、一件の通知が届く。


 それは、ここ数日追っていた不審死の情報と一致するものだった。


 被害者の共通点。


 発生地点。


 時間帯。


 そして、最後に浮かび上がった名前。


「……藤田宏和か」


 中森は画面を見つめ、静かに息を吐く。


 断片的な情報は揃っていた。


 寄生体による侵食。


 そして、既に制御不能に近い段階にある可能性。


「……結衣。」


「もう時間切れだ。」


「この案件は、もう修正では届かん。」


「滅殺になる。」


 夜の高速道路を、一台の黒いバイクが駆け抜けていた。


 ヘッドライトが闇を裂く。


 ハンドルを握る佐々木結衣の表情には、迷いはなかった。


 目的地は一つ。


 藤田宏和。


 人間でいられる最後の時間は、もう終わろうとしていた。

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