番外編1 侵されるもの 第3章 残されないもの
朝から、頭の中が静かだった。
静かすぎた。
あれほど絶え間なく響いていた声が、一つも聞こえない。
代わりに、妙な安心感だけが残っていた。
(……終わったのか。)
そう思った自分が甘かった。
組本部へ足を踏み入れた瞬間、胸ポケットのスマートフォンが微かに震える。
画面は見ない。
見たら終わる。
そう分かっていた。
それでも震動は止まらない。
まるで心臓がもう一つ増えたように、一定の間隔で鼓動を打ち続ける。
「藤田」
組長の低い声だった。
事務所の奥。
歴代組長の写真が並ぶ部屋。
その中央で、組長は腕を組んで藤田を見ていた。
「最近、お前の周りで死人が増えてるそうだな。」
「……偶然です。」
「偶然で若頭が死ぬか。」
組長の視線が鋭くなる。
「お前、俺に隠してることがあるな。」
藤田は頭を下げた。
「ありません。」
「顔を上げろ。」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞬間だった。
スマートフォンが鳴る。
震動ではない。
今まで一度も鳴ったことのない通知音。
甲高く。
耳の奥へ突き刺さるような電子音。
藤田の身体が止まる。
(見るな。)
(見るな。)
(見るな。)
必死に言い聞かせる。
しかし、右手だけが勝手に胸ポケットへ伸びていた。
スマートフォンを取り出す。
画面を伏せたまま握り締める。
「藤田?」
組長が怪訝そうに近づく。
その一歩に反応するように、画面がひとりでに点灯した。
《PRIORITY TARGET》
恐る恐る視線を落とす。
表示されていた写真は。
組長だった。
(……違う。)
(この人だけは、駄目だ。)
親指を押さえつける。
左手で右手首を掴む。
震えが止まらない。
「おい!」
組長が肩へ手を置いた。
その瞬間。
世界が一瞬だけ途切れた。
◇
気が付くと、床へ座り込んでいた。
耳鳴り。
息が荒い。
手の中にはスマートフォン。
画面には一行だけ表示されている。
《EXECUTION COMPLETE》
目の前では組長が倒れていた。
周囲では組員たちが怒号を上げている。
「組長!」
「救急車だ!」
「藤田ァ!」
誰かが怒鳴る。
誰かが拳銃を抜く。
誰かが藤田を指差していた。
「こいつだ!」
「若頭に続いて組長まで!」
「裏切りやがった!」
藤田は首を横へ振る。
「違う……」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
「俺じゃねぇ……」
しかし誰も聞かない。
聞く理由もない。
事実だけを見れば、若頭が死に、組長も倒れ、その場に藤田だけが立っていた。
組員たちが一斉に迫る。
「殺せ!」
「逃がすな!」
藤田は反射的に事務所を飛び出した。
背後で銃声が響く。
窓ガラスが砕ける。
アスファルトを転がり、立ち上がる。
逃げるしかなかった。
もう組へ帰る場所はない。
家へ帰ることもできない。
走り続ける藤田のポケットで、スマートフォンが静かに光る。
《NEXT TARGET》
《SURVIVE》
《CONTINUE》
画面を見つめながら、藤田は初めて理解した。
自分はもう、この”コード”を使っているのではない。
コードに使われているのだと。
夜の街を、藤田は走っていた。
どこへ向かうのか、自分でも分からない。
ただ、生き延びたい。
その一心だけだった。
背後ではサイレンが遠く響き、組の車も市内を探し回っている。
もう警察にも、組にも追われる身だった。
(どうしてこうなった……。)
息が切れる。
足が重い。
だが、その疲労とは裏腹に、身体の奥では別の何かが高揚していた。
スマートフォンが震える。
見るまいと決めていた。
それでも視線が吸い寄せられる。
《HOST STATUS》
《97.8%》
《FINAL SYNCHRONIZATION》
「……やめろ。」
画面を叩きつけても、表示は消えない。
液晶の文字が滲み、黒い液体のように画面全体へ広がっていく。
そして、その黒はゆっくりと一つの顔を形作った。
目も鼻もない。
ただ、人を見下ろすような笑みだけが浮かんでいる。
《逃げるのか。》
耳ではない。
頭の内側から聞こえる声だった。
「黙れ。」
《追われることを恐れるな。》
《恐れは、より良い器を育てる。》
「俺は、お前の器じゃねぇ!」
怒鳴る。
その瞬間、激しい頭痛が走った。
膝をつく。
視界が何度も明滅する。
断片的な映像が流れ込んでくる。
知らない街。
知らない人々。
そして、倒れていく無数の人影。
そのすべてを見下ろしながら笑っている”自分ではない何か”。
《人は、消える。》
《情報も、記録も、存在も。》
《だからこそ、我らは選ぶ。》
《不要なものを。》
藤田は耳を塞いだ。
「うるせぇ!」
その叫びと同時に、近くで車の急ブレーキ音が響く。
「いたぞ!」
組員だった。
二台のワゴン車が路地の入口を塞ぐ。
十人近い男たちが、一斉に降りてくる。
「藤田!」
「組長を殺しやがって!」
「今日で終わりだ!」
拳銃。
金属バット。
刃物。
全員が本気だった。
藤田は後ずさる。
(違う。)
(俺じゃない。)
(俺が殺したんじゃ……。)
だが、その言葉は喉で止まる。
頭の中では、別の声が静かに囁いていた。
《証明してみろ。》
《自分が無実だと。》
《誰が信じる。》
組員たちが一斉に距離を詰める。
逃げ場はない。
その瞬間。
スマートフォンが、これまでにない強い光を放った。
《EMERGENCY EXECUTION MODE》
画面が真っ黒に染まる。
藤田は反射的にスマートフォンを投げ捨てようとした。
しかし、指が開かない。
手の神経そのものが、命令を拒否していた。
「離れろ!」
自分の口から叫んだ。
「来るな!」
組員たちは止まらない。
「今さら命乞いか!」
「やれ!」
藤田は涙を流していた。
「お願いだから……。」
「俺に近づくな。」
その懇願は、誰にも届かなかった。
スマートフォンの画面に、最後の一文が表示される。
《ALL HOSTILE UNITS CONFIRMED》
藤田の瞳から、人間らしい光がゆっくりと失われていく。
それを、路地の向かい側から静かに見つめる一人の影があった。
黒いライダースーツ。
ヘルメットを抱えたまま壁にもたれ、微動だにしない。
佐々木結衣。
彼女は八鍵へ静かに手を添え、小さく呟いた。
「……もう、始まる。」
◇
組員たちを振り切った頃には、夜が明け始めていた。
肺が焼ける。
足は鉛のように重い。
それでも藤田は走り続けた。
向かう場所は一つしかない。
家だった。
アパートの階段を駆け上がる。
鍵を乱暴に開けると、恋人が飛び出してきた。
「ヒロくん!」
その顔を見た瞬間だけ、藤田の瞳に人間らしい光が戻る。
「荷物をまとめろ。」
「え……?」
「ここにはいられねぇ。」
「海外へ逃げる。」
「今すぐだ。」
恋人は事情も分からないまま頷く。
藤田の切羽詰まった様子だけは伝わっていた。
寝室では大輔が眠そうな目をこすっている。
「パパ?」
「お出かけ?」
「ああ。」
藤田は無理に笑った。
「少し遠くへ行くだけだ。」
子どもを抱き上げる。
その瞬間だった。
頭の奥で声が響く。
《TARGET》
「黙れ。」
《REMOVE》
「うるさい!」
大輔がびくりと肩を震わせる。
突然怒鳴った父親に怯え、小さな身体をよじる。
「やだ!」
「ママ!」
泣き声が部屋へ響く。
「違う……。」
「違うんだ……。」
藤田は必死に宥めようとした。
「静かにしてくれ。」
「頼むから……。」
泣き声は止まらない。
焦りだけが募る。
外では組の車が近づく音がしていた。
時間がない。
「お願いだから……!」
抱き寄せる腕に、無意識に力が入る。
その瞬間。
子どもの泣き声が、不意に止んだ。
静寂。
藤田は恐る恐る腕の中を見る。
「……大輔?」
返事はない。
眠っているように見えた。
だが、その静けさは眠りではなかった。
藤田の腕が震え始める。
「違う……。」
「俺は……。」
「そんなつもりじゃ……。」
恋人は一歩、また一歩と後ずさった。
顔から血の気が引いている。
「ヒロくん……。」
「あなた……。」
「違う!」
藤田は泣きそうな声で首を振る。
「違うんだ!」
「俺じゃない!」
「俺は守ろうと……。」
恋人は悲鳴を上げ、玄関へ走った。
「待って!」
反射的に腕を伸ばえる。
掴んだのは手首だった。
その一瞬。
また力の加減が分からなくなる。
鈍い音が響いた。
恋人はその場へ崩れ落ちる。
苦痛に顔を歪めながら、涙を流して藤田を見上げた。
そこにあったのは愛情ではない。
恐怖だった。
その視線が、藤田の心を深く抉る。
「……違う。」
「俺は……。」
「俺は、お前たちだけは……。」
言葉は最後まで続かなかった。
頭の奥で、寄生体が静かに笑ったからだ。
《ようやく。》
《すべてを失ったな。》
藤田はその場へ膝をついた。
両手を見つめる。
守るための手だった。
そのはずの手が、最も守りたかったものを傷つけてしまった。
その瞬間、部屋の空気がゆっくりと歪み始める。
寄生体の侵食率が、限界へ達しようとしていた。
静かだった。
あれほど騒がしかった部屋から、音が消えていた。
藤田は膝をついたまま動けない。
目の前の現実を理解しようとしても、思考が追いつかない。
「……違う。」
乾いた声だけが漏れる。
「俺じゃ……。」
言葉は最後まで続かなかった。
視界の端で、スマートフォンが淡く光る。
誰も触れていない。
それでも画面だけが勝手に切り替わる。
《HOST STABILITY 100%》
《EGO TERMINATION》
その文字を見た瞬間だった。
頭の奥で、何かが音を立てて崩れた。
記憶。
感情。
罪悪感。
恐怖。
すべてが一枚ずつ剥がされていく。
(……いやだ。)
心のどこかで叫ぶ。
(まだ俺はいる。)
(消えたくない。)
返事が返ってきた。
それは自分の声ではない。
《もう十分だ。》
《お前はよく働いた。》
《あとは継ぐ。》
身体の感覚が遠ざかる。
腕を動かそうとしても動かない。
瞬きをしようとしても、自分の意思では閉じられない。
まるで、自分の身体を少し離れた場所から見ているようだった。
鏡があった。
割れた鏡。
そこへ映る男が、ゆっくりと立ち上がる。
藤田ではない。
藤田の姿をした”何か”だった。
《……なるほど。》
低い声。
落ち着いている。
さっきまでの狼狽は、どこにも残っていない。
《人間という器は、ここまで変質するのか。》
鏡の中の男は、自分の手をゆっくりと開き、閉じる。
一本ずつ指を曲げ、その動きを確かめる。
《悪くない。》
その笑みには、人間らしい温度がなかった。
藤田は、その光景を内側から見ていた。
(動け。)
(頼む。)
(俺の身体だ。)
しかし返事はない。
身体は完全に別の意思で動いている。
《聞こえているか。》
頭の奥で声がした。
《安心しろ。》
《お前は消さない。》
《ここで、ずっと見ていろ。》
絶望だった。
死ぬことすら許されない。
身体を奪われ、自分ではない何かが世界を見る。
それを止めることも、叫ぶこともできない。
(やめろ……。)
(お願いだから……。)
(俺の身体を返せ……。)
願いは届かない。
もう祈りですらない。
残ったのは、意識だけだった。
寄生体は静かにスマートフォンを拾い上げる。
画面には新しい文字が浮かんでいる。
《NEXT PHASE》
《SEARCH》
《COMPATIBLE HOST》
寄生体は、小さく笑った。
《器は、一つでは足りぬ。》
《次を探そう。》
玄関へ向かう。
ゆっくりとドアを開ける。
朝日が差し込む。
その光を浴びても、影は一つしかなかった。
人間の影ではない。
寄生体の影だった。
その瞬間、中森の端末が静かに警告音を鳴らす。
〔寄生型残響 完全成熟〕
〔分類変更〕
〔宿主 喪失〕
〔対象を残響個体として再分類〕
中森は画面を見つめ、表情を曇らせた。
「……間に合わなかったか。」
そして、黒いバイクが夜明けの道路を駆け抜ける。
佐々木結衣はアクセルをさらに開いた。
これから相対する相手は、もう藤田宏和ではない。
人間を喰らい、人間の姿を借りた、新たな残響だった。




