番外編1 侵されるもの 第1章 壊れていくもの
最初は、運がいいだけだと思っていた。
藤田宏和は、自分の手を見つめながら、そんなことを考えていた。
薄汚れたテーブル。
吸い殻の詰まった灰皿。
安い焼酎の匂い。
煙草の煙の向こうで、部屋の輪郭が少し歪んで見える。
数か月前まで、藤田はただの下っ端だった。
使い走り。
荷物運び。
脅し役。
呼ばれれば行き、殴れと言われれば殴る。
それだけの男だった。
組の中で名前を覚えられているだけ、まだましな方。
そんな程度の存在だった。
それが今では、若頭の隣に座ることを許されている。
理由は一つしかない。
消せるからだ。
最初にそれを知ったのは、雨上がりの路地だった。
夜十一時過ぎ。
繁華街の裏手。
濡れたアスファルトがネオンを汚く反射していた。
敵対組織のチンピラ五人に囲まれた時、藤田は終わったと思った。
「お前んとこ、最近調子乗りすぎなんだよ」
そう言われて、腹を蹴られた。
膝が折れる。
胃液が喉まで上がる。
誰も助けに来ない。
いつものことだった。
藤田はそう思っていた。
その瞬間。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
着信ではない。
通知でもない。
画面だけが勝手に光っている。
そこには、見覚えのない文字列が表示されていた。
《EXECUTE》
意味は分からなかった。
英語は得意ではない。
だが、その文字だけは妙にはっきり見えた。
押せ。
そう言われている気がした。
藤田は、震える指で画面に触れた。
次の瞬間。
目の前にいた男が崩れ落ちた。
膝からではない。
糸を切られた人形のように、突然、全身の力を失った。
「……は?」
誰かが間抜けな声を出す。
倒れた男は喉を掻きむしっていた。
目を剥き、泡を吹き、濡れた路面の上で痙攣している。
数秒後。
動かなくなった。
残りの四人が固まる。
藤田も固まっていた。
ただ、スマートフォンだけが動いていた。
画面に新しい文字が流れる。
《TARGET CONFIRMED》
《CONTINUE?》
意味は分からない。
だが、分かっていた。
続けるか。
そう聞かれている。
藤田は笑った。
怖かったわけではない。
腹を蹴られた痛みも、頬の腫れも、全部遠くにあった。
胸の奥が熱かった。
自分の人生で初めて、何かを握った気がした。
親指が動く。
タップ。
二人目が倒れた。
今度は叫びすらなかった。
身体が内側から潰されたように、胸を押さえて崩れ落ちた。
三人目は逃げようとした。
藤田は画面を見る。
《TARGET MOVING》
《LOCK?》
タップ。
逃げかけた男の足が止まる。
次の瞬間、首を押さえて倒れた。
残った二人は悲鳴を上げて逃げていく。
藤田は追わなかった。
追う必要がなかった。
路地には、三人分の身体が転がっている。
雨上がりの水たまりに、ネオンと血の色が混ざっていた。
藤田は、その場に座り込んだ。
笑っていた。
「……これ、使えるじゃねぇか」
それが始まりだった。
それからの出世は早かった。
敵対組織の構成員が突然死する。
幹部が理由もなく精神を壊す。
夜道で、事務所で、車内で。
藤田が画面に触れるたび、誰かが消えた。
誰も証拠を掴めない。
ナイフも銃も使っていない。
防犯カメラにも何も映らない。
ただ、標的だけが壊れる。
裏ではすぐに噂が広がった。
藤田は何かを持っている。
あいつは危ない。
あいつには関わるな。
藤田はその噂が気に入った。
これまで自分を見下していた連中が、目を逸らす。
名前を呼ぶ声が、少しだけ丁寧になる。
若頭が藤田を呼ぶようになった。
「藤田、次はあいつだ」
そう言われるたび、スマートフォンの中の“それ”が反応する。
アプリではない。
履歴にも残らない。
ただの、文字列の集合。
だが、藤田はそれを呼ぶ名前を決めていた。
呪いコード。
なぜそう呼んだのか、自分でも分からない。
頭では便利な道具だと思っている。
だが、心のどこかでは理解していた。
これは普通ではない。
人が持っていいものではない。
それでも、藤田は使った。
一度も迷わなかった。
迷う理由がなかった。
自分はもう、蹴られる側ではない。
消される側ではない。
消す側になったのだ。
画面がまた光る。
《NEXT TARGET IDENTIFIED》
藤田は笑った。
その笑みは、自分でも分かるほど歪んでいた。
だが、気にならなかった。
怖さはもうない。
あるのは、ただ一つ。
快感だった。
◇
人生は、驚くほど簡単に変わった。
若頭の隣。
酒席の上座。
以前なら顔も覚えられていなかった男たちが、今では自分の機嫌を窺う。
「藤田さん」
そう呼ばれるたび、胸の奥が熱くなった。
誰も逆らわない。
誰も見下さない。
力とは、こんなにも分かりやすいものなのか。
藤田は初めて、自分が”人間になれた”気がしていた。
若頭は仕事を回す。
「次はこいつだ」
封筒を受け取る。
中には顔写真。
住所。
勤務先。
スマートフォンが震える。
《TARGET DETECTED》
藤田は迷わず画面を押した。
翌朝。
標的は会社で突然倒れた。
原因不明。
心肺停止。
ニュースにもならない、小さな死。
藤田は笑った。
「便利な世の中だな」
その頃からだった。
違和感が現れ始めたのは。
朝、鏡を見る。
顔が少し痩せている。
目だけが妙に開いている。
笑顔を作る。
鏡の中の自分も笑う。
だが、ほんの一瞬だけ遅れる。
「……疲れてるだけか」
そう思おうとした。
夜になる。
恋人が夕食を並べる。
「最近、ちゃんと寝てる?」
「寝てる。」
「顔色悪いよ。」
「仕事だ。」
会話が続かない。
昔は違った。
どうでもいい話を笑いながら聞けた。
今は面倒だった。
それよりも。
誰かを消した時の快感が忘れられない。
子供が駆け寄る。
「パパ!」
小さな身体を抱き上げる。
その瞬間。
(……軽い。)
違う。
身体が軽いのではない。
存在が軽い。
まるで指先一つで消せるように思えた。
藤田は慌てて頭を振る。
(何考えてんだ。)
こんなのは自分じゃない。
その夜。
眠っていると、スマートフォンが勝手に光った。
《HOST ALIGNMENT:58%》
《EMOTIONAL SUPPRESSION COMPLETE》
意味は分からない。
だが画面を閉じても文字は瞼の裏に残った。
翌朝。
味噌汁の味が分からない。
煙草も苦くない。
人の悲鳴だけが心地いい。
人を殴っても何も感じない。
笑っても嬉しくない。
泣いても何も思わない。
感情が少しずつ削れていく。
それでも。
スマートフォンを開くと安心した。
画面には一行だけ。
《NEXT TARGET》
胸が高鳴る。
恋人の笑顔より。
子供の寝顔より。
その文字を見る方が嬉しかった。
藤田は画面を撫でる。
「あと何人だ。」
返事はない。
代わりに文字が増えた。
《HOST ALIGNMENT:72%》
《FURTHER INTEGRATION REQUIRED》
数字だけが増えていく。
その意味を理解しようとは思わなかった。
理解したら、この力を失う気がしたからだ。
だから藤田は笑う。
「もう少しなんだろ。」
その声に。
喉の奥から、もう一つの声が重なった。
《そうだ。》
藤田は凍り付く。
誰もいない。
部屋には自分しかいない。
それでも確かに聞こえた。
《もう少しだ。》
スマートフォンの画面が、静かに光る。
《HOST ALIGNMENT:82%》
《INTEGRATION CONTINUING》
藤田は画面を見つめたまま笑った。
怖い。
その感情だけは、まだ残っていた。
だが。
その怖ささえ、どこか甘かった。
それが一番恐ろしいことだと、もう気づけなくなっていた。




