番外編 寄生型残響・藤田宏和事件 その2 誰の手なのか
部屋は、きれいだった。
藤田の好みじゃない。
女のほうが勝手に揃えた家具だ。
薄いカーテン。
小さな観葉植物。
床に敷かれた柔らかいラグ。
「ただいま」
そう言うと、
キッチンの方から足音がした。
「おかえり、ヒロくん」
少し間延びした声だった。
それが、嫌いじゃなかった。
「おかえり」
子供の声も続く。
まだ五歳。
藤田の“血”は入っていない、連れ子だ。
でも、
なぜかこの子だけは、
消したいなんて一度も思ったことがなかった。
「今日は遅かったね」
「まあな」
靴を脱いで、リビングに上がる。
ソファでは、子供が床におもちゃを散らかしていた。
色のついたプラスチック。
やけに鮮やかに見える。
「パパ見てー」
子供が、積み木を指さした。
城みたいな形。
「すげぇじゃねえか」
そう言いながら、頭を撫でる。
……触感が、少し変だ。
頭じゃない。
皮膚の奥を触っている感覚。
まるで、
表面の“子供”の下に、
もっと柔らかい別の層があるみたいに。
嫌な考えを振り払う。
「ごはん、もうすぐできるよ」
女の声。
台所から風が流れてくる。
味噌と、少し油の匂い。
普通だ。
普通の家庭だ。
「今日はさ」
女が言う。
「どこ行ってたの?」
藤田は答えなかった。
答えられないんじゃない。
必要ないと思っている。
でも、それは昔の自分じゃなかった。
昔は、
どうでもいい報告でも、ちゃんとしていた。
「仕事」
一言だけ返す。
「だんだん、顔つき変わってきたよね」
女がそう言った瞬間、
空気が少しだけ張り詰めた。
「そうか?」
藤田は笑おうとした。
でも口角が、以前のように上がらない。
「目つきがさ……前より、冷たくなった気がする」
「気のせいだろ」
自分で言いながら、
どこかで分かっている。
冷たくなったんじゃない。
他のものに置き換わり始めているだけだ。
「最近さ」
女が、包丁を握ったまま言う。
「寝言、ひどいよ」
藤田の手が止まる。
「……何て言ってる?」
「わかんない」
少し困った顔で、
女は肩をすくめた。
「言葉じゃないみたいな声」
「噛み砕いたみたいな音」
藤田は、そのまま黙る。
頭の中で、
誰かが小さく笑った。
それが誰か、もう区別がつかない。
夜、子供が寝たあと、
藤田はトイレの鏡の前に立った。
顔を見る。
以前より痩せた。
だがそれだけじゃない。
目の奥に、
自分じゃない光がある。
目を開くタイミングが、
わずかに遅い。
表情が、
自分の後を追いかけてくる。
「……なんだよ、これ」
唇が勝手に動く。
「どっちが先だ」
鏡の中の藤田が、
同時に、少し遅れて、同じ口の形をした。
その差は、ほんの一瞬。
でもその一瞬が、
耐えがたい。
洗面台に手をつく。
その手を見て、
息が詰まった。
指が、前より少しだけ
長くなっている。
骨が、
皮膚の下で増えている感覚。
「……おい」
声が漏れた。
スマホが、ポケットの中で震えた。
まただ。
画面を見ると、
文字が流れている。
《HOST ALIGNMENT: 72%》
《FURTHER INTEGRATION REQUIRED》
意味を考えるのを、やめた。
考えたら、
怖くなる。
怖くなったら、
止まるかもしれない。
でも止まれない。
止まったら、
今の自分が崩れる。
「あと少しなんだろ?」
そう呟いた瞬間、
喉の奥に別の声が重なる。
——そうだ、もう少しだ。
鏡の中の“自分”が、
わずかに笑った。
藤田は、その顔を見て思った。
「……まあ、悪くねぇ」
おかしいと思っていないことが、
もう、おかしいことに気づけなくなっていた。




