第39話 通さないもの 第1章 壊したあと
第39話 通さないもの 第1章 壊したあと
最初に壊れたのは、お堂だった。
新潟県の山沿いにある、小さな堂だった。観光地として知られているわけでもなく、地元の人間が時々手を合わせに来る程度の場所で、道路から少し外れた林の奥に、半ば隠れるように建っている。上杉謙信を祀っていると看板には書かれていたが、若い人間にとってその文字は、重みより先に古臭さとして映る。まして夜だった。街灯もろくに届かず、木々の間を抜けてくる風の音ばかりが耳につくような場所で、歴史も信仰も、肝試しの背景として処理される。
そこへ来たのは、大学生の男三人と女二人だった。
きっかけは動画だった。心霊スポットだとか、触ってはいけない場所だとか、コメント欄にそれらしい話が並んでいるのを見て、面白半分で来た。最初は車の中で笑っていた。誰が先に鳥居をくぐるか、誰が賽銭箱を蹴るか、そんな程度の馬鹿話だった。
「こういうのさ、結局なんもないんだよな」
先頭を歩いていた男がそう言って、スマートフォンのライトをお堂に向けた。古い木の扉、色の剥げた柱、風雨に晒された屋根。見るからに傷んでいる。近寄ってみれば、手で押しただけで外れそうなくらい脆く見えた。
「やめとけって」
そう言ったのは女の一人だったが、声に本気はなかった。怖がっているというより、後で何か起きた時に自分だけ無関係でいるための予防線に近い響きだった。
「何がだよ」
男は笑う。そして、賽銭箱の前に落ちていた石を拾って、扉へ向かって投げた。
鈍い音がした。
乾いた、嫌な音だった。壊れる時の音というより、長く保っていたものの均衡が崩れる音に近かった。扉の一部が割れ、木片が落ちる。誰かが「うわ」と笑った。動画を撮っていた女が、画面を揺らしながら「今の入った?」と声を上げる。
それで終われば、まだよかったのかもしれない。
だが男は調子に乗った。
近づいて、蹴った。
扉の残りが外れ、内側の暗闇が露出する。風が吹いたわけでもないのに、その瞬間だけ空気がひやりと冷えた。五人とも、そこで一瞬黙った。理由はない。ただ、何かを境に空気の質が変わったことだけは、全員が同時に感じていた。
「……入る?」
誰かが冗談めかして言ったが、その声はさっきまでより小さかった。
先頭の男が、笑って中を照らした。中には何もなかった。いや、何もないように見えた。神像らしきものも、護符も、供物も見えない。ただ奥に、黒く沈んだ空間があるだけだった。
「ほんとに何もねえじゃん」
男がそう言った時、背後で枝の折れる音がした。
全員が振り返る。
だが、何もいない。
林があるだけだ。風もない。虫の鳴き声すら途切れている。妙に静かだった。
「帰ろうよ」
女の一人が今度は少し強く言った。さすがに気味が悪かったのだろう。今度は誰も笑わなかった。動画を止め、踵を返す。そこでまた、全員が同時に足を止めた。
来た道が、分からなくなっていた。
いや、正確には、道はある。確かに林の間に細い踏み跡が続いている。だが、その先が見えない。闇に溶けているのではない。何か、薄い膜のようなものがある。目の錯覚にしては輪郭がはっきりしすぎていて、ライトを向けると白っぽく濁って見えた。
「……何あれ」
女が呟く。
先頭の男が近づき、手を伸ばす。触れた瞬間、弾かれたように腕を引いた。
「いてっ」
「何?」
「いや……なんか、ある」
ふざけている感じではなかった。男は眉を寄せ、もう一度手を伸ばす。今度はゆっくりと。だが結果は同じだった。見えない壁がそこにあるように、指先が途中で止まる。押しても進まない。強く押せば押し返される。ガラスでも金属でもない。感触がないのに、通らない。
「意味わかんねえ」
別の男が横から手を出す。やはり止まる。彼は苛立ったようにその場の小石を拾い、前へ投げた。石は数メートル先で落ちた。壁などないように見える。だが、人だけが通れない。
そこでようやく、全員の顔から酔いが消えた。
「帰れないの?」
女の一人が、笑いそうな顔で言う。笑わなければ泣きそうだったのだろう。
「そんなわけねえだろ」
そう答えた男の声も、少し掠れていた。
携帯を見る。圏外だった。車の鍵はある。だが車まで戻れない。道を変えようとしても、林のどこを抜けようとしても同じだった。木の間をすり抜けて先へ行けそうに見えるのに、ある位置まで来ると進めなくなる。顔も身体も通るのに、胸のあたりで止められる。押し込もうとすると息が詰まる。まるで、そこだけ世界の外壁が閉じているみたいだった。
十分もしないうちに、五人の空気は完全に変わった。
最初に怒鳴ったのは、扉を壊した男だった。
「おい、ふざけんなよ!」
誰に向けた叫びなのか、自分でも分かっていない声だった。林に向かって石を投げる。見えない壁を殴る。鳥居を蹴る。だが、何も変わらない。
その時だった。
女の一人が小さく悲鳴を上げた。手首を押さえている。見ると、枝で擦ったらしい細い傷があった。さっき林を抜けようとした時にできたものだろう。誰も気にするような傷ではない。本人も最初はそうだった。だが、次の瞬間、その女の表情が変わった。
「……痛い」
声が震える。
「何が?」
「痛い、なんか……熱い」
傷口の周囲が赤くなっていく。異様に早い。腫れではない。血が、そこに集まっているような赤さだった。女は手首を押さえたまま、その場にしゃがみ込む。
「冗談やめろよ」
そう言った男の顔にも、もう余裕はない。女の肩に触れようとして、ためらう。触れたところでどうなるのか分からない、という怯えが先に立っていた。
お堂の方で、木が軋む音がした。
全員が振り向く。
壊したはずの扉の奥。暗闇の中で、何かが立っている。
人の形だった。
だが、人ではなかった。
鎧に似た輪郭がある。だが金属ではない。乾いた皮膚を何重にも重ねたような、不自然に滑らかな表面。顔のある位置は暗く窪み、目だけが異様に静かだった。怒っているわけではない。憎んでいるわけでもない。ただ、そこから出てはならないものが出た時の、取り返しのつかなさだけが、その立ち姿にはあった。
《通さぬ》
声は大きくなかった。
だが、林全体がそれを聞いたように思えた。
《義を壊した者は、通さぬ》
誰も動けなかった。
言葉の意味が分からなくても、自分たちが何かを決定的に間違えたことだけは理解できた。
女が呻く。傷口を押さえたまま、肩を震わせている。呼吸が荒い。別の男が、半歩だけ後ずさる。だが、その後ろにも、同じような見えない拒絶があるだけだった。
お堂を壊した男が、ようやく声を出した。
「……なんだよ、お前」
その問いに、影は少しも揺れなかった。
《外からの歪みは、通さぬ》
それだけだった。
そして、五人はようやく理解する。
自分たちは閉じ込められたのだと。
どこにも逃げ場はないのだと。
壊したのは扉ではなく、何かの境界だったのだと。




