第38話 夢の逃げ場 第5章 残らないもの
音は、なかった。
ただ、途切れた。
何かが、確実に。
それまで空間に張り付いていた線が、同時にほどける。波の形も、顔の断片も、途中で止まっていたはずの線の集積も、すべてが一斉に力を失う。崩れるというより、意味を失って解けていく。見ている側が補っていた部分が、支えをなくして消えていく。
墨の匂いだけが、遅れて残る。
湿った空気が引く。
冷たい現実の空気が、ゆっくりと戻ってくる。
展示室の奥行きが、ようやく定まる。
壁が壁として、天井が天井として、再び成立する。
その中心に、老人は立っていた。
葛飾北斎。
貫かれている。
大鎌の刃が、胸を貫いている。
だが、血は出ない。
そもそも、そこには血という概念がない。
あるのは、崩れかけた輪郭だけだった。
線の集合体。
墨の滲み。
それが辛うじて形を保っている。
だが、まだ消えてはいない。
完全には、終わっていない。
北斎の目が、こちらを見る。
澄んでいる。
濁りがない。
狂気はある。
だが、混乱はない。
自分が何をして、どう終わるのかを、理解している目だった。
《……そうか》
小さく呟く。
《夢に逃がさぬか》
その声は、誰に向けられているわけでもない。
愛音でもない。
梓でもない。
自分自身への確認。
長く続けてきた方法が、ここでは通用しなかったという理解。
《ならば》
わずかに間が空く。
《ここで終わる》
筆は、動かない。
動かせないのではない。
動かす必要が、消えている。
夢という逃げ場がない以上、創作という機構は意味を持たない。
内側に溜めたものは、もはや外へ出せない。
燃え尽きるか。
あるいは——
奪われるか。
愛音は何も言わない。
ただ、大鎌を押し込む。
深く。
確実に。
ためらいはない。
躊躇もない。
夢という緩衝が存在しない以上、干渉はそのまま通る。
北斎の身体が、静かに止まる。
固定される。
逃げ場を持たないまま。
そのまま。
《……惜しいな》
最後の言葉。
それは、ほんのわずかに笑っていた。
《あと十年》
執着。
未練。
到達しきれなかった地点への、静かな固執。
その“残り”だけが、最後まで残る。
だが、それすらも。
次の瞬間、引き剥がされる。
愛音の胸元。
翡翠が脈打つ。
重く。
鈍く。
濁った光を帯びて。
引き込む。
北斎の輪郭が崩れる。
線が解ける。
構造が剥がれる。
思想が分解される。
すべてが、別の器へと移されていく。
夢に逃がしていた狂気が、今度は逃げ場を持たないまま収束する。
流れない。
散らない。
ただ、沈む。
吸収は、ゆっくりと進む。
抗う余地はない。
拒絶する構造も、すでに失われている。
最後に残ったのは——
空白だった。
何もない。
そこにあったはずのすべてが、消えている。
展示室は、元の形に戻っていた。
壁には何も掛かっていない。
床にも紙はない。
痕跡すら残っていない。
最初から何もなかったかのように、整っている。
ただ一つ。
床に、紙が落ちていた。
白い紙。
折れもない。
汚れもない。
完全な白。
描かれていない。
何も。
愛音はそれを見下ろす。
少しだけ、首を傾げる。
「……つまんない」
小さく呟く。
評価だった。
残らないものには、価値がない。
それだけ。
興味は続かない。
視線を外す。
そのまま、踵を返す。
空間が裂ける。
音はない。
だが、確実に境界が開く。
帰還。
呼び戻し。
命令に従う。
躊躇はない。
そのまま、裂け目の向こうへ消える。
あとに残るのは、静寂だけだった。
梓は、その場に倒れていた。
八鍵を握ったまま。
呼吸は浅い。
だが、止まってはいない。
胸がわずかに上下している。
ゆっくりと、目を開ける。
視界がぼやけている。
焦点が合わない。
だが、それでも分かる。
さっきまであったものが、消えている。
「……終わり、ましたか……」
誰に向けた言葉でもない。
確認でもない。
ただ、受け止めるための言葉。
修正は、途中まで届いていた。
だが、最後は奪われた。
残ったのは、何もないという結果。
それが正しいかどうかは、分からない。
だが、広がりは止まった。
それだけは、確かだった。
その頃。
病室では、変化が起きていた。
患者の瞼の動きが、止まっている。
激しく動いていた眼球が、静かになっている。
呼吸が整う。
心拍が落ち着く。
数値が安定する。
医師がモニターを見て、わずかに首を傾げる。
「……落ち着いてきた?」
原因は分からない。
だが、明らかに状態は改善している。
夢が、終わった。
それだけが、結果として残る。
高峰はその報告を受け、短く息を吐いた。
助かった。
だが、理解はできない。
何が起きていたのか。
なぜ終わったのか。
説明はつかない。
それでも、現場は収束する。
それが、この種の案件の終わり方だった。
ただ一つ。
違和感だけが残る。
夢に逃がされていたはずのものが、今回は逃げなかった。
では、それはどこへ行ったのか。
答えはない。
ただ——
どこかに“残っている”。
その感覚だけが、消えない。
展示室で回収された白紙は、やがて袋に入れられる。
何気ない手つきで、係員が持ち上げる。
光にかざす。
何もない。
ただの白い紙。
だが、角度が変わった瞬間。
ほんの一瞬だけ。
薄い線が浮かぶ。
目のような。
波のような。
未完成のままの何か。
それは、すぐに消える。
最初からなかったかのように。
だが、確かにそこにあった。
残らないはずのものが、残っている。
その事実だけが、静かに続いていく。




