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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第38話 夢の逃げ場 第5章 残らないもの

 音は、なかった。


 ただ、途切れた。


 何かが、確実に。


 それまで空間に張り付いていた線が、同時にほどける。波の形も、顔の断片も、途中で止まっていたはずの線の集積も、すべてが一斉に力を失う。崩れるというより、意味を失って解けていく。見ている側が補っていた部分が、支えをなくして消えていく。


 墨の匂いだけが、遅れて残る。


 湿った空気が引く。


 冷たい現実の空気が、ゆっくりと戻ってくる。


 展示室の奥行きが、ようやく定まる。


 壁が壁として、天井が天井として、再び成立する。


 その中心に、老人は立っていた。


 葛飾北斎。


 貫かれている。


 大鎌の刃が、胸を貫いている。


 だが、血は出ない。


 そもそも、そこには血という概念がない。


 あるのは、崩れかけた輪郭だけだった。


 線の集合体。


 墨の滲み。


 それが辛うじて形を保っている。


 だが、まだ消えてはいない。


 完全には、終わっていない。


 北斎の目が、こちらを見る。


 澄んでいる。


 濁りがない。


 狂気はある。


 だが、混乱はない。


 自分が何をして、どう終わるのかを、理解している目だった。


《……そうか》


 小さく呟く。


《夢に逃がさぬか》


 その声は、誰に向けられているわけでもない。


 愛音でもない。


 梓でもない。


 自分自身への確認。


 長く続けてきた方法が、ここでは通用しなかったという理解。


《ならば》


 わずかに間が空く。


《ここで終わる》


 筆は、動かない。


 動かせないのではない。


 動かす必要が、消えている。


 夢という逃げ場がない以上、創作という機構は意味を持たない。


 内側に溜めたものは、もはや外へ出せない。


 燃え尽きるか。


 あるいは——


 奪われるか。


 愛音は何も言わない。


 ただ、大鎌を押し込む。


 深く。


 確実に。


 ためらいはない。


 躊躇もない。


 夢という緩衝が存在しない以上、干渉はそのまま通る。


 北斎の身体が、静かに止まる。


 固定される。


 逃げ場を持たないまま。


 そのまま。


《……惜しいな》


 最後の言葉。


 それは、ほんのわずかに笑っていた。


《あと十年》


 執着。


 未練。


 到達しきれなかった地点への、静かな固執。


 その“残り”だけが、最後まで残る。


 だが、それすらも。


 次の瞬間、引き剥がされる。


 愛音の胸元。


 翡翠が脈打つ。


 重く。


 鈍く。


 濁った光を帯びて。


 引き込む。


 北斎の輪郭が崩れる。


 線が解ける。


 構造が剥がれる。


 思想が分解される。


 すべてが、別の器へと移されていく。


 夢に逃がしていた狂気が、今度は逃げ場を持たないまま収束する。


 流れない。


 散らない。


 ただ、沈む。


 吸収は、ゆっくりと進む。


 抗う余地はない。


 拒絶する構造も、すでに失われている。


 最後に残ったのは——


 空白だった。


 何もない。


 そこにあったはずのすべてが、消えている。


 展示室は、元の形に戻っていた。


 壁には何も掛かっていない。


 床にも紙はない。


 痕跡すら残っていない。


 最初から何もなかったかのように、整っている。


 ただ一つ。


 床に、紙が落ちていた。


 白い紙。


 折れもない。


 汚れもない。


 完全な白。


 描かれていない。


 何も。


 愛音はそれを見下ろす。


 少しだけ、首を傾げる。


「……つまんない」


 小さく呟く。


 評価だった。


 残らないものには、価値がない。


 それだけ。


 興味は続かない。


 視線を外す。


 そのまま、踵を返す。


 空間が裂ける。


 音はない。


 だが、確実に境界が開く。


 帰還。


 呼び戻し。


 命令に従う。


 躊躇はない。


 そのまま、裂け目の向こうへ消える。


 あとに残るのは、静寂だけだった。


 梓は、その場に倒れていた。


 八鍵を握ったまま。


 呼吸は浅い。


 だが、止まってはいない。


 胸がわずかに上下している。


 ゆっくりと、目を開ける。


 視界がぼやけている。


 焦点が合わない。


 だが、それでも分かる。


 さっきまであったものが、消えている。


「……終わり、ましたか……」


 誰に向けた言葉でもない。


 確認でもない。


 ただ、受け止めるための言葉。


 修正は、途中まで届いていた。


 だが、最後は奪われた。


 残ったのは、何もないという結果。


 それが正しいかどうかは、分からない。


 だが、広がりは止まった。


 それだけは、確かだった。


 その頃。


 病室では、変化が起きていた。


 患者の瞼の動きが、止まっている。


 激しく動いていた眼球が、静かになっている。


 呼吸が整う。


 心拍が落ち着く。


 数値が安定する。


 医師がモニターを見て、わずかに首を傾げる。


「……落ち着いてきた?」


 原因は分からない。


 だが、明らかに状態は改善している。


 夢が、終わった。


 それだけが、結果として残る。


 高峰はその報告を受け、短く息を吐いた。


 助かった。


 だが、理解はできない。


 何が起きていたのか。


 なぜ終わったのか。


 説明はつかない。


 それでも、現場は収束する。


 それが、この種の案件の終わり方だった。


 ただ一つ。


 違和感だけが残る。


 夢に逃がされていたはずのものが、今回は逃げなかった。


 では、それはどこへ行ったのか。


 答えはない。


 ただ——


 どこかに“残っている”。


 その感覚だけが、消えない。


 展示室で回収された白紙は、やがて袋に入れられる。


 何気ない手つきで、係員が持ち上げる。


 光にかざす。


 何もない。


 ただの白い紙。


 だが、角度が変わった瞬間。


 ほんの一瞬だけ。


 薄い線が浮かぶ。


 目のような。


 波のような。


 未完成のままの何か。


 それは、すぐに消える。


 最初からなかったかのように。


 だが、確かにそこにあった。


 残らないはずのものが、残っている。


 その事実だけが、静かに続いていく。

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