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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第38話 夢の逃げ場 第4章 燃え残り

 直接の干渉は、夢よりも静かだった。


 だが、その分だけ逃げ場がなかった。


 展示室の空気が、わずかに重くなる。音は消えない。光も消えない。だが、それらが「意味」として届かなくなる。壁と天井はそこにあるはずなのに、輪郭が曖昧にほどけ、奥行きだけが引き伸ばされる。距離が測れない。近いのか遠いのか、判断がつかない。


 中央にいる老人——葛飾北斎の輪郭が、さらに崩れる。


 墨の滲みが、そのまま肉体を形作っているようだった。線が重なり、濃淡が揺れ、形が成立しては崩れる。その繰り返しで、かろうじて「そこにいる」と認識できる。


 筆が動く。


 紙ではない。


 空間そのものに。


 細い線が、空気に刻まれる。


《夢に頼らぬ》


 低い声。


 感情はない。


 ただ、構造の変更を告げるだけの声。


《ならば、ここで引き出す》


 その瞬間だった。


 梓の胸の奥に、冷たいものが差し込まれる。


 痛みではない。


 感覚とも違う。


 だが、確かに「そこにある」と分かる何か。


 それが、外へ動く。


 引きずり出される。


 夢を経由しない。


 直接。


 素材として。


「……っ」


 声にならない音が漏れる。


 八鍵を握る手が震える。


 祓詞を組もうとする。


 だが、形にならない。


 思考が繋がらない。


 言葉が組み上がる前に、削られる。


 さっきまでは違った。


 見て、補って、そこから引き出されていた。


 だが今は違う。


 最初から「あるもの」として扱われている。


 逃げ場がない。


 誤魔化しが効かない。


 空間に、線が走る。


 一本。


 二本。


 三本。


 それが重なる。


 形になる。


 梓の背後に、何かが立つ。


 人影に見える。


 だが輪郭が曖昧だ。


 誰かに似ている。


 だが特定できない。


 近づくほど、分かってしまう。


 これは、自分の中にあったものだと。


 見たくなかったもの。


 忘れたかったもの。


 名前を付けなかったもの。


 それが、完成された形でそこにある。


 逃げられない。


 目を逸らせない。


 呼吸が乱れる。


 肺に空気が入らない。


 身体が動かない。


 恐怖が、直接焼き付く。


《それでよい》


 北斎の声が落ちる。


《逃がせぬなら、焼けばよい》


 筆が速くなる。


 線が増える。


 梓の内側から引き出されたものが、空間に固定されていく。


 夢の時とは違う。


 逃がしていない。


 消費している。


 燃やしている。


 排熱ではない。


 燃焼。


 その熱が、内側から削る。


 思考が薄れる。


 視界が揺れる。


 意識が持たない。


「……っ」


 膝が崩れる。


 床に触れる感覚が遅れてくる。


 八鍵が滑る。


 握り直す力が入らない。


 祓詞を維持する余力が、急速に削られていく。


 さっきまで成立していた防御も、ここでは意味を持たない。


 成立する前に、材料が燃やされる。


 構造が違う。


 対処が間に合わない。


 その様子を、愛音は見ていた。


 動かない。


 焦りもない。


 ただ観察している。


 絵は見えている。


 線も見えている。


 だが、それ以上が来ない。


 意味が流れ込まない。


 補完が起きない。


 夢を見ない構造が、そのまま遮断になっている。


 流し込めない。


 引き出せない。


 だから——燃えない。


「それ、つまんないね」


 小さく言う。


 評価だった。


 感想ではない。


「燃やすだけじゃ、残らないでしょ」


 筆が止まる。


 ほんの一瞬。


 だが、確実に。


 北斎の手が、止まる。


《……残る》


 低い声。


 わずかな反発。


《描けば、残る》


「それ、逃げてるだけだよ」


 愛音が一歩踏み出す。


 床が歪む。


 空間が引き伸ばされる。


 だが関係ない。


 踏み込む。


 意味が成立しない場所を、そのまま踏み潰すように。


「夢にして、絵にして、外に出してるだけ」


 距離が詰まる。


 北斎の前に立つ。


「中にないでしょ」


 その一言で、空気が変わる。


 葛飾北斎は、狂気を抱えていた。


 だが、それを持ち続けなかった。


 外へ出した。


 夢へ。


 絵へ。


 だから保てた。


 だから壊れなかった。


 だが——


 外へ出せない相手。


 夢を持たない存在。


 排熱できない対象。


 それは、想定されていない。


《……ならば》


 筆が、再び動く。


 今度は愛音へ向く。


 直接、引き出す。


 夢を介さず。


 内側から。


 線が走る。


 だが——


 何も起きない。


 引き出せない。


 流れてこない。


 空間に、何も刻まれない。


《……無い》


 声が揺れる。


 初めて。


《何も、無い》


 愛音は首を傾げる。


「あるよ」


 淡々と答える。


「外に出ないだけ」


 その瞬間、空間が軋む。


 構造が、崩れかける。


 処理が回らない。


 夢に落とせない。


 描けない。


 燃やせない。


 その停滞が、致命的な隙になる。


 愛音が笑う。


 小さく。


 静かに。


 だが、残酷に。


「じゃあ、もらうね」


 大鎌が持ち上がる。


 光を吸うような刃。


 揺れない。


 迷いがない。


 梓は、その光景を見ていた。


 身体は動かない。


 意識も薄れている。


 だが、理解だけが残る。


 これは——


 終わり方が違う。


 修正ではない。


 奪取。


 そのまま、消える。


 それを、分かってしまう。


 最後の力を振り絞る。


「……だめ……です……」


 声が出る。


 かすれている。


 届くか分からない。


 だが、確かに出た。


 ほんの一瞬。


 愛音の動きが止まる。


 振り下ろす直前。


 わずかな間。


 その遅れ。


 それだけで、意味が生まれる。


 北斎の目が、梓を見る。


 初めて、正面から。


 そして——


 笑う。


 静かに。


 穏やかに。


 諦めではない。


 恐怖でもない。


 理解。


 ここで終わるという、理解。


《……まだだ》


 小さく言う。


《あと十年で、本物になる》


 その言葉だけが残る。


 執着。


 消えない熱。


 最後まで残る芯。


 次の瞬間。


 大鎌が、振り下ろされる。

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