第38話 夢の逃げ場 第4章 燃え残り
直接の干渉は、夢よりも静かだった。
だが、その分だけ逃げ場がなかった。
展示室の空気が、わずかに重くなる。音は消えない。光も消えない。だが、それらが「意味」として届かなくなる。壁と天井はそこにあるはずなのに、輪郭が曖昧にほどけ、奥行きだけが引き伸ばされる。距離が測れない。近いのか遠いのか、判断がつかない。
中央にいる老人——葛飾北斎の輪郭が、さらに崩れる。
墨の滲みが、そのまま肉体を形作っているようだった。線が重なり、濃淡が揺れ、形が成立しては崩れる。その繰り返しで、かろうじて「そこにいる」と認識できる。
筆が動く。
紙ではない。
空間そのものに。
細い線が、空気に刻まれる。
《夢に頼らぬ》
低い声。
感情はない。
ただ、構造の変更を告げるだけの声。
《ならば、ここで引き出す》
その瞬間だった。
梓の胸の奥に、冷たいものが差し込まれる。
痛みではない。
感覚とも違う。
だが、確かに「そこにある」と分かる何か。
それが、外へ動く。
引きずり出される。
夢を経由しない。
直接。
素材として。
「……っ」
声にならない音が漏れる。
八鍵を握る手が震える。
祓詞を組もうとする。
だが、形にならない。
思考が繋がらない。
言葉が組み上がる前に、削られる。
さっきまでは違った。
見て、補って、そこから引き出されていた。
だが今は違う。
最初から「あるもの」として扱われている。
逃げ場がない。
誤魔化しが効かない。
空間に、線が走る。
一本。
二本。
三本。
それが重なる。
形になる。
梓の背後に、何かが立つ。
人影に見える。
だが輪郭が曖昧だ。
誰かに似ている。
だが特定できない。
近づくほど、分かってしまう。
これは、自分の中にあったものだと。
見たくなかったもの。
忘れたかったもの。
名前を付けなかったもの。
それが、完成された形でそこにある。
逃げられない。
目を逸らせない。
呼吸が乱れる。
肺に空気が入らない。
身体が動かない。
恐怖が、直接焼き付く。
《それでよい》
北斎の声が落ちる。
《逃がせぬなら、焼けばよい》
筆が速くなる。
線が増える。
梓の内側から引き出されたものが、空間に固定されていく。
夢の時とは違う。
逃がしていない。
消費している。
燃やしている。
排熱ではない。
燃焼。
その熱が、内側から削る。
思考が薄れる。
視界が揺れる。
意識が持たない。
「……っ」
膝が崩れる。
床に触れる感覚が遅れてくる。
八鍵が滑る。
握り直す力が入らない。
祓詞を維持する余力が、急速に削られていく。
さっきまで成立していた防御も、ここでは意味を持たない。
成立する前に、材料が燃やされる。
構造が違う。
対処が間に合わない。
その様子を、愛音は見ていた。
動かない。
焦りもない。
ただ観察している。
絵は見えている。
線も見えている。
だが、それ以上が来ない。
意味が流れ込まない。
補完が起きない。
夢を見ない構造が、そのまま遮断になっている。
流し込めない。
引き出せない。
だから——燃えない。
「それ、つまんないね」
小さく言う。
評価だった。
感想ではない。
「燃やすだけじゃ、残らないでしょ」
筆が止まる。
ほんの一瞬。
だが、確実に。
北斎の手が、止まる。
《……残る》
低い声。
わずかな反発。
《描けば、残る》
「それ、逃げてるだけだよ」
愛音が一歩踏み出す。
床が歪む。
空間が引き伸ばされる。
だが関係ない。
踏み込む。
意味が成立しない場所を、そのまま踏み潰すように。
「夢にして、絵にして、外に出してるだけ」
距離が詰まる。
北斎の前に立つ。
「中にないでしょ」
その一言で、空気が変わる。
葛飾北斎は、狂気を抱えていた。
だが、それを持ち続けなかった。
外へ出した。
夢へ。
絵へ。
だから保てた。
だから壊れなかった。
だが——
外へ出せない相手。
夢を持たない存在。
排熱できない対象。
それは、想定されていない。
《……ならば》
筆が、再び動く。
今度は愛音へ向く。
直接、引き出す。
夢を介さず。
内側から。
線が走る。
だが——
何も起きない。
引き出せない。
流れてこない。
空間に、何も刻まれない。
《……無い》
声が揺れる。
初めて。
《何も、無い》
愛音は首を傾げる。
「あるよ」
淡々と答える。
「外に出ないだけ」
その瞬間、空間が軋む。
構造が、崩れかける。
処理が回らない。
夢に落とせない。
描けない。
燃やせない。
その停滞が、致命的な隙になる。
愛音が笑う。
小さく。
静かに。
だが、残酷に。
「じゃあ、もらうね」
大鎌が持ち上がる。
光を吸うような刃。
揺れない。
迷いがない。
梓は、その光景を見ていた。
身体は動かない。
意識も薄れている。
だが、理解だけが残る。
これは——
終わり方が違う。
修正ではない。
奪取。
そのまま、消える。
それを、分かってしまう。
最後の力を振り絞る。
「……だめ……です……」
声が出る。
かすれている。
届くか分からない。
だが、確かに出た。
ほんの一瞬。
愛音の動きが止まる。
振り下ろす直前。
わずかな間。
その遅れ。
それだけで、意味が生まれる。
北斎の目が、梓を見る。
初めて、正面から。
そして——
笑う。
静かに。
穏やかに。
諦めではない。
恐怖でもない。
理解。
ここで終わるという、理解。
《……まだだ》
小さく言う。
《あと十年で、本物になる》
その言葉だけが残る。
執着。
消えない熱。
最後まで残る芯。
次の瞬間。
大鎌が、振り下ろされる。




