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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第38話 夢の逃げ場 第3章 描かれる側

 展示会場は、閉鎖されていた。


 入口には簡素な貼り紙があり、設備点検中とだけ書かれている。だが、文字の軽さとは裏腹に、その奥にあるものは明らかに違っていた。警備員が一人、所在なげに立っているが、その視線はどこか落ち着かない。ここがただの点検ではないことを、本人も理解している顔だった。


 梓は足を止める。


 入口から、ほんの数歩。


 そこが境界だった。


 踏み込む前から分かる。空気の密度が違う。匂いではない。温度でもない。もっと曖昧で、それでいて確実に異質な何かが、そこに満ちている。


 八鍵を持つ手に、微かな違和感が走る。


 拒絶ではない。


 認識のズレ。


 ここから先は、見たものがそのまま現実として成立しない。


 そういう領域。


「……入ります」


 誰に聞かせるでもない小さな声。


 そのまま、踏み込む。


 瞬間、世界が切り替わる。


 匂いが変わる。


 墨の匂い。


 乾ききらない紙の匂い。


 それに混じる、わずかな血の気配。


 視界の奥行きが狂う。


 広くないはずの展示室が、妙に遠い。壁に掛けられている絵が、距離に関係なく同じ大きさで視界に入る。近づいているのか離れているのか、判断がつかない。


 音が吸い込まれている。


 自分の足音だけが、妙に軽い。


 踏んでいるはずなのに、床に体重が乗らない。


 梓は一度、視線を落とした。


 床に紙が落ちている。


 白い紙。


 そこに、黒い線が一本。


 だがその線は、じっと見ていると変わる。


 曲がる。


 増える。


 別の形に見える。


 見るたびに違う。


 未完成のまま、固定されている。


 梓は視線を逸らした。


 見てはいけない。


 見れば補う。


 補えば、完成に近づく。


 それが、この空間の罠だった。


 視線を動かす。


 壁に掛かる別の絵。


 波のような線。


 だがよく見ると、その波の中に何かがある。


 顔。


 無数の顔。


 泣いているもの、笑っているもの、歪んだもの。


 だが、それらは完全ではない。


 目がない。


 口が途切れている。


 皮膚が途中で切れている。


 だからこそ、見る側が補ってしまう。


 完成させてしまう。


 その瞬間。


《見よ》


 声が落ちる。


 低く、静かで、逃げ場のない声。


 反射的に、顔が上がる。


 止められない。


 見る。


 見てしまう。


 展示の中央。


 そこに、老人がいた。


 畳もない。


 床も違う。


 だが、そこだけが別の空間として成立している。


 老人は座り、紙の前にいる。


 筆を持っている。


 現実に存在している。


 だが同時に、現実の定義から外れている。


 輪郭が揺れている。


 線でできているように見える。


《見よ》


 もう一度。


 今度は、命令だった。


 視界が固定される。


 逃げられない。


 逸らせない。


 見せられる。


 紙の上のものを。


 筆が動く。


 音がする。


 墨の音ではない。


 濡れたものが擦れる、生々しい音。


 線が引かれる。


 一本。


 二本。


 それが繋がる。


 意味を持つ。


 巨大な波になる。


 その中に、無数の顔が埋まっている。


 完成する。


 未完成のまま。


 だが、見る側が完成させる。


 その瞬間。


 胸の奥が締め付けられる。


 息が詰まる。


 過去が浮かぶ。


 思い出したくない記憶。


 押し込めた感情。


 恐怖。


 後悔。


 怒り。


 それらが勝手に引きずり出される。


 抵抗できない。


 考える前に、感情が流れ出る。


 それが、そのまま紙の上に固定されていく。


「……っ」


 梓は歯を食いしばる。


 八鍵を握る。


 だが、祓詞が出ない。


 言葉が組めない。


 思考が追いつかない。


 見ている。


 感じている。


 それだけで、処理が限界に達する。


《よい》


 老人が言う。


《それでよい》


 筆が速くなる。


 梓の中から引き出されたものが、形になる。


 夢と同じ構造。


 だが、ここは現実だ。


 逃げ場がない。


 排出ではなく、固定。


 終わらない。


 その時だった。


 空間が、裂ける。


 音はない。


 だが、明確に異物が入る。


 流れが、途切れる。


 愛音だった。


 ゆっくりと歩いてくる。


 周囲の絵を見ていない。


 視線が滑らない。


 補完が起きていない。


 ただ、中心だけを見る。


 老人だけを見る。


「それ?」


 小さく言う。


 問いではない。


 対象の確定。


 それだけ。


 筆が止まる。


 初めてだった。


 流れが、止まる。


《……何も、持たぬか》


 声が変わる。


 困惑が混じる。


 愛音は首を傾げる。


「なにが?」


《夢よ》


 その一言。


 核心。


 愛音は、ほんの一瞬だけ間を置く。


 そして、答える。


「見ないよ」


 平坦に。


 当たり前のこととして。


 その瞬間。


 空間が歪む。


 絵が崩れる。


 波が揺れる。


 顔が解ける。


 補完が起きない。


 意味が成立しない。


 流れ込まない。


 供給されない。


《……逃がせぬ》


 葛飾北斎の声が、初めて揺れる。


 梓の拘束が緩む。


 視界が戻る。


 呼吸が通る。


「……っ、愛音さん……!」


 声が出る。


 かすれているが、確かに届く。


 愛音は振り返らない。


 ただ、前へ進む。


 老人へ近づく。


「じゃあ、それいらないね」


 淡々とした声。


 否定。


 構造そのものへの否定。


 逃がす必要がない。


 夢がない。


 なら、創作も成立しない。


 葛飾北斎が、筆を握り直す。


 だが——


 動かない。


 描けない。


 素材がない。


 夢がない。


 狂気が流れない。


 排熱できない。


 その状態が、初めてだった。


《……ならば》


 声が沈む。


《直接、引き出す》


 空間が歪む。


 より深く。


 より直接的に。


 夢を介さない干渉。


 梓の視界が揺れる。


 今度は逃げ場がない。


 そして——


 それは、決定的に危険だった。

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