第38話 夢の逃げ場 第2章 寝ているあいだ
通報が入った時点では、ただの精神不安定として処理されかけていた。
大学生の一人が、自室に大量の絵を残して錯乱状態にある。友人の通報内容はその程度で、救急が先か警察が先かで迷うような案件だった。だが、同じ時間帯に別の場所から似た通報が二件入ったことで、話が変わった。どちらも若い男女で、どちらも自分の顔を描いた得体の知れない絵を部屋中に残し、睡眠不足と錯乱を訴えている。共通点が多すぎた。
高峰修一が資料を受け取ったのは、その三件目の通報の直後だった。
写真を見た瞬間、嫌な感じがした。並んでいるのは押収された紙片の画像だが、単なる証拠写真ではない。視線を引き留める力がある。見てはいけないと分かるのに、目が離れない。紙の上にある線が、こちらの頭の中で勝手に繋がり、意味を持とうとする。
完成していないからこそ、危険だった。
「……これ、見てると変な感じになりますね」
若い刑事が言う。高峰は答えず、別の写真へ視線を移す。部屋の壁一面に貼られた紙。床に散らばる紙。ベッドの上の紙。その中心に倒れている学生。医療記録には、強い睡眠障害、発汗、軽度の痙攣、見当識障害とある。外傷はない。薬物反応も出ていない。
それでも、普通ではない。
高峰にはそれが分かった。異常には、必ず“偏り”がある。この三件は整いすぎている。しかも媒体が夢だ。現実の中で完結していない。
「共通点は」
「来場歴が出ました。同じ展示です」
差し出されたのはSNSのまとめだった。小規模な巡回展示。江戸の絵師をテーマにした企画。その中に、葛飾北斎をモチーフにした体験型展示がある。来場者が“夢と創作”を体感するという触れ込みのものだ。
三人とも、その会場にいた。
時刻も近い。
高峰は携帯を取り出した。
コールは短い。
『……はい』
梓の声だった。
「夢を媒介にした案件が出てる」
要点だけを伝える。部屋に残された絵、睡眠中の発症、展示の共通点。梓は最後まで黙って聞いた。
『……残響の可能性が高いです』
「やっぱりか」
『夢の中で創作を行い、狂気を外へ逃がす構造です。ただ、今回は逆流しています』
高峰は眉を寄せる。
「逆流?」
『本来は内側の熱を夢に逃がすための仕組みです。それが他人の夢を使っている。つまり、外部から供給を受けている状態です』
短い沈黙。
「止められるか」
『止めるのではなく、断ちます』
梓の声は静かだった。
『夢の連鎖を断ち切る必要があります』
「現場は押さえる。入るのは任せる」
『お願いします』
通話を切る。
高峰は端末を置き、写真をもう一度見る。紙の上の線が、さっきより増えている気がした。錯覚だと分かっている。だが、その錯覚そのものが、この案件の性質だった。
夢で描かれたものが、現実へ滲み出ている。
それだけではない。
現実で見たものが、夢の中で増幅されている。
その循環が、閉じていない。
高峰は立ち上がる。
「現場へ行く」
短く言う。
この手の案件は、境界で止まらない。
その頃。
祀社の内部は、いつも通り静かだった。
光が少ない。音もない。時間の流れも曖昧だ。そこに立っていると、自分がいつからそこにいるのか分からなくなる。
愛音は、その中心にいた。
何もしていない。
何も見ていない。
ただ、存在している。
主様からの命令は、すでに届いていた。
狂気の排熱。
精神は夢を介して安定を保つ。
その存在を取り込む。
それだけ。
愛音は目を細める。
「夢……」
小さく呟く。
その言葉に、実感はない。
「分かんない…」
事実だった。
愛音は夢を見ない。
眠っても、何も見ない。
何も流れない。
何も逃げない。
すべてが、そのまま残る。
排熱しない。
変換しない。
ただ、蓄積する。
それがどういう意味を持つのか、愛音自身は深く考えない。だが結果として、それは一つの欠損だった。
狂気の排熱が必要なものなのか、最初から存在しない者には理解できない。
愛音は歩き出す。
ゆっくりと。
だが迷いはない。
向かう先は、すでに決まっている。
その頃、最初の被害者は病室で眠らされていた。
鎮静剤が投与され、身体は安定している。医師の処置は適切だ。だが、瞼の下の動きが止まらない。眼球が激しく揺れている。夢を見ている。
その夢の中で。
老人は筆を動かし続けていた。
紙は増え続ける。
顔が増える。
未完成の線が重なり、形を取り始める。
《まだだ》
老人は言う。
《まだ、足りぬ》
筆が走るたび、現実の心拍が上がる。呼吸が乱れる。だが、その因果は誰にも見えない。
《夢へ逃がせば、燃えぬ》
それが、唯一の理屈だった。
逃がし続ける限り、壊れない。
だから、描く。
だから、奪う。
だが。
老人の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
違和感。
供給がある。
だが、どこかで詰まっている。
流れない場所がある。
夢に落ちてこない“何か”。
《……欠けておる》
初めて、その言葉が漏れる。
夢を持たない存在。
流し込めない器。
その存在が、こちらへ近づいている。
老人——葛飾北斎は、ゆっくりと顔を上げる。
夢の中で。
誰もいないはずの空間を見つめる。
その視線の先に、まだ何もいない。
だが、確実に近づいている。
夢を見ないものが。




