第38話 夢の逃げ場 第1章 見たはずのない絵
最初におかしいと思ったのは、夢の内容だった。
大学二年の春というのは、妙に中途半端な時期だ。新入生ほど浮かれてもいられず、かといって就職だ将来だと切羽詰まっているわけでもない。授業にも慣れ、バイトにも慣れ、友人関係にも大きな変化はない。その代わり、毎日が曖昧に似てくる。講義棟とアパートとコンビニを往復し、夜更かしをして、昼過ぎまで寝る。そういう生活の隙間に、変な夢が入り込んだ。
最初の夜、夢の中で私は畳の上に立っていた。見たことのない部屋だった。広いようでもあり、狭いようでもある。壁も天井もはっきりしない。ただ、目の前に紙があった。大きな和紙だった。床いっぱいに広げられていて、濡れているようにも見えるし、乾いているようにも見える。白いはずなのに、どこか薄く青い。
その前に、老人が座っていた。
背中しか見えない。小柄で、痩せていて、着物の肩が骨ばっている。髪は乱れていて、白いのか灰色なのか分からない。だが、その背中を見た瞬間、妙なことを思った。ああ、この人は眠っていない、と。
夢の中なのに、そう感じた。
老人は筆を持っていた。長く、細く、異様に黒い筆だった。それを紙に置く。すると音がした。墨の音ではない。濡れたものが擦れるような、もっと生々しい音だった。老人は迷いなく線を引く。一本、二本、三本。どれも意味があるように見えたし、同時に何の意味もないようにも見えた。風景ではない。人物でもない。かといって抽象でもない。ただ、見ているこちらの中から何かを引き出して、それを紙の上に固定していくような線だった。
そこで目が覚めた。
朝の五時だった。カーテンの隙間から薄い光が入っている。喉が渇いていた。嫌な夢を見たという感覚だけが残っていて、内容は曖昧だった。だが、妙に疲れていた。徹夜をした翌朝みたいに頭が重い。二度寝して、昼に起きた時には、もうほとんど忘れていた。
問題は二日目だった。
夢の続きが始まった。
同じ部屋。同じ老人。同じ紙。今度は背中だけではなく、横顔が見えた。皺だらけの顔で、眼だけが異様に澄んでいる。狂気というほど荒れてはいない。むしろ静かだった。静かすぎて、こちらの方が息をひそめてしまうような静けさだった。老人は筆を動かしながら、何かを言った。
《まだだ》
声は小さい。だが、耳元で囁かれたみたいに近かった。
《まだ、足りぬ》
その瞬間、紙の上の線が増殖した。私がさっきまで見ていたはずのものと違うものになっている。波のようにも見えた。顔のようにも見えた。獣の毛並みにも、女の髪にも見えた。見ているこちらが、そこに意味を与えた瞬間、それは別のものへ変わる。
怖い、と思った。
だが、目が逸らせない。
老人は振り返らないまま、また言った。
《おぬしも、持っておろう》
何を、とは聞けない。聞いた瞬間、それが本当に自分の中から出てきてしまう気がした。
《逃がさねば、焼ける》
そこで目が覚めた。
全身が汗で濡れていた。シーツが湿っている。だが、奇妙なのはそこではなかった。机の上に、覚えのない紙が置いてあった。コンビニのコピー用紙を一枚だけ出したような、安い白い紙。その真ん中に、黒い線が引かれている。一本だけ。震えているわけでもなく、真っ直ぐでもない。何かの輪郭の途中みたいな、不完全な線だった。
昨夜こんなものを書いた覚えはない。
寝ぼけてやったのかとも思った。けれど、机の横にはペンも何も出ていない。しかもその線は、油性ペンやボールペンではなく、墨で描いたみたいに滲んでいた。
紙を捨てた。
その時点では、気味が悪い、で済ませられた。友人に話したら笑われるだろうと思ったし、笑われた方がたぶん楽だった。だから誰にも言わなかった。
三日目の朝、紙は二枚になった。
一枚は前日と同じような線だった。もう一枚は、目のように見えた。横向きの目だった。まぶたは描かれていない。ただ、じっとこちらを見ている黒い輪郭だけがあって、その中に瞳孔らしき濃い滲みがある。上手いとか下手とか、そういう感想が浮かばない絵だった。見ると胸がざわつく。ただそれだけだった。
授業中も、その目が頭から離れなかった。ノートを取ろうとすると、文字の間に線が入り込む。教授の顔が、一瞬だけ墨の滲みに見える。眠いわけではない。熱があるわけでもない。むしろ頭は冴えている。だから余計に、異常がはっきり分かった。
昼休み、トイレの鏡で自分の顔を見る。目の下に隈ができていた。頬がこけて見える。三日寝ていない人間みたいだった。水で顔を洗い、鏡をもう一度見た時、背後に老人が立っている気がした。
振り返った。
誰もいない。
なのに、耳元で声がした。
《よい》
その場にしゃがみ込みそうになった。息が詰まる。目の奥が熱い。叫びたかったが、叫べば周囲の学生に見られる。変なやつだと思われる。そういう現実的な羞恥が、かろうじて理性を繋いでいた。
アパートに帰るのが怖くなったのは、その日の夕方だった。机の上に紙が増えていると想像しただけで、胃の奥が冷える。だが帰らないわけにもいかない。コンビニに寄り、わざと時間を潰し、それでも結局戻った。
玄関を開けた瞬間、墨の匂いがした。
ありえないと思った。うちの部屋で墨なんて使ったことがない。習字道具もない。なのに、はっきりとその匂いがする。乾ききらない墨の、湿った金属みたいな匂いだ。
机の上には紙が五枚置かれていた。
全部、絵だった。
波。目。口。女の首筋。魚の鱗。老人の指。どれも完成していない。だが、未完成のままこちらの想像を引きずり込む。全体像を見せないからこそ、頭の中で勝手に繋がる。そして、その繋がった像がいちばん嫌な形を取る。
私はその場で吐いた。
何が起きているのか分からない。夢なのか、寝ぼけて自分で描いているのか、それとも誰かが部屋に入っているのか。鍵は閉まっていた。窓も閉まっている。監視カメラでも付けようかと思ったが、その発想自体が遅かった。
その夜、眠らないつもりだった。
コーヒーを飲み、電気をつけっぱなしにし、机の前に座っていた。だが、人間の身体はそんなに都合よくできていない。いつの間にか、うとうとしていた。
目を開けると、部屋ではなかった。
あの畳の部屋だ。
今度は老人が正面を向いていた。顔が見えた。小さく、皺深く、だが眼だけがぎらぎらしている。年寄りの目ではなかった。もっと若い、もっと飢えた目だった。老人は筆を置き、こちらを見る。
《まだ、足りぬ》
私は後ずさった。だが、畳の感触がない。足元が自分のものではないみたいに不安定だった。
《人は、夢へ逃がす》
老人が言う。
《狂気も、執着も、怒りも、みな夢へ追いやる》
その声には確信があった。教えるでも、脅すでもない。自分のやり方を説明しているだけの平坦さだった。
《でなければ、身が焼ける》
老人の背後に、無数の絵が立ち上がる。紙ではない。空中に浮かんでいる。女の顔。獣の爪。波。鬼。仏。笑っているようにも、泣いているようにも見える。
《夢に描けば、保つ》
その瞬間、私は気づいた。
この老人は、自分の中のものを夢に逃がしているのだと。創作という形を使って。そうしなければ、自分が壊れるから。
そして、逃がしきれなかったものが、今こちらへ溢れている。
《おぬしも、持っておろう》
私は首を振った。何を否定しているのか分からないまま。
老人が笑う。
その笑いは、優しさにも慈悲にも見えた。だが、同時に獲物を見つけた者の静かな確信でもあった。
《では、借りる》
次の瞬間、視界いっぱいに墨が散った。
目が覚めた時、私は机に突っ伏していた。朝だった。呼吸が浅い。喉が乾いている。窓の外は普通の住宅街の朝なのに、部屋の中だけが妙に暗かった。
机の上に紙が増えていた。
十枚以上あった。
全部、同じ顔だった。
私の顔だった。
だがどれも少しずつ違う。泣いている。笑っている。怒っている。無表情。目がない。口だけが笑っている。首がない。皮膚が剥がれている。どれも私で、どれも私ではない。
その時、初めて本気で思った。
ああ、これはもう、夢じゃない。
逃げ場がなくなった、と思った。




