表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
207/233

第37話 誤差 第5章 残された座標

 空間の緊張が、ゆっくりと解けていく。


 張り詰めていた何かが消え、音が戻る。遠くでサイレンが鳴っている。風が通り抜ける。均一だった空気に、わずかな揺らぎが生まれる。


 高峰はその場に膝をついたまま、しばらく動けなかった。身体の感覚が、遅れて戻ってくる。関節が軋む。筋肉が痛む。呼吸が荒い。肺に空気が入るたび、現実に引き戻される。


 生きている。


 それだけが、はっきりしていた。


 周囲で、崩れる音が連続する。固定されていた人間たちが、次々と地面に倒れ込む。完全に固定されていた者は、そのままの姿勢で崩れ、関節が不自然に外れたまま転がる。中途半端に解放された者は、壊れた姿勢のまま動き出し、遅れて痛みを理解して悲鳴を上げる。


「……あああああああ!」


 ようやく声が出た者の叫びが、空気を裂く。


「動くな! 無理に動かすな!」


 高峰は反射的に声を張った。自分でも驚くほど声が出る。だが現場は混乱していた。助かったという安堵と、壊れた身体への恐怖が同時に噴き出している。


 若い刑事が、地面に転がったまま必死に呼吸をしている。肩は外れ、腕は不自然な角度に曲がっている。それでも、目は生きていた。高峰は這うように近づく。


「聞こえるか」


 刑事の視線が、ゆっくりと合う。


「……はい……」


 かすれた声だった。


「動くな。そのままでいい」


 言いながら、無線を掴む。


「救急を増やせ。負傷者多数、重傷含む。搬送は慎重に、関節損傷あり」


 応答が返る。現場が一気に動き出す。規制線の外から、救急隊がなだれ込んでくる。担架、医療器具、怒号と指示が交錯する。


 高峰は一度だけ、視線を上げた。


 そこには、もう何もなかった。


 測量の線も、歪んだ空間も、骨の影も、すべて消えている。ただの住宅街に戻っている。だが、その場に残された人間の状態だけが、現実を否定していた。


 助かった。


 そう理解した瞬間、全身から力が抜ける。


 同時に、別の感情が浮かび上がる。


 あの少女。


 最後に現れた存在。


 あれがなければ、全員終わっていた。


 間違いなく、救われた。


 だが——


 助かったという感覚の奥に、説明できない不快さが残る。


 伊能忠敬を、あまりにも容易く排除した。


 抵抗も、対処も、意味を持たなかった。


 測定という絶対性が、成立しなかった。


 あれは“強い”という次元ではない。


 違う。


 あれは、ルールの外にいる。


 高峰は無意識に、胸元を押さえた。心臓の鼓動がまだ速い。だが、それとは別の冷たい感覚が残っている。


 不吉だった。


 あの存在が、こちら側にいること自体が。


 その時、背後から足音がした。


「……高峰さん」


 振り返ると、梓が立っていた。息はわずかに上がっている。急いできたのは一目で分かる。


「遅れました」


 淡々とした声だが、目は状況を正確に捉えていた。倒れている人間、壊れた姿勢、搬送される負傷者、そして何も残っていない中心。


「……終わってる」


 短く言う。


「ああ」


 高峰は頷いた。


「終わった」


 梓が数歩、現場の中心に歩み寄る。地面を見下ろす。何もない。だが、何かを感じ取っているようだった。


「残響は」


「消えた」


「滅殺ではないですね」


 断言に近い言い方だった。


「……吸収だ」


 高峰は答える。


 梓の目が、わずかに細くなる。


「誰に」


 高峰は一瞬、言葉を選んだ。


「……少女だ」


「少女」


「大鎌を持ってた」


 それだけで、梓は理解したようだった。表情は変わらない。だが、わずかに空気が冷える。


「……そうですか」


 それ以上は言わない。


 高峰は、ゆっくりと息を吐いた。


「三枚使った」


「順番は守りましたか」


「守った」


「なら、正解です」


 梓は淡々と言う。


「三枚目を使わなければ、全滅していました」


 事実だった。


 高峰は、地面に視線を落とす。


「間に合わなかったな」


「はい」


 梓は否定しない。


「ただし、結果としては最善です」


 その言葉に、わずかに引っかかる。


「最善?」


「被害は出ていますが、全滅は避けられています。残響も消えている」


 そして、わずかに間を置く。


「ただし——」


 続きを言わない。


 だが、高峰には分かっていた。


 残った問題。


 あの少女。


 あれは、終わりではない。


 むしろ、別の何かの始まりだ。


 救われたはずなのに、安堵が完全には残らない理由が、それだった。


 高峰は、担架に乗せられる刑事たちを見た。壊れた身体。だが、生きている。


 助かった。


 それは事実だ。


 だが同時に、何かが“ずれた”まま残っている。


 測定されたはずの世界に、測れないものが入り込んだ。


 その歪みは、もう戻らない。


 高峰は、空を見上げた。


 何もない夜だった。


 だが、その何もなさが、ひどく不安だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ