第37話 誤差 第4章 弱肉強食
測定棒が振り下ろされる、その寸前だった。
高峰の指が、最後の札に触れる。
動けない。だが、わずかに動く。完全固定の一歩手前、身体が“確定される前の隙間”に、辛うじて指先だけが残っている。
それを逃さなかった。
札を引き抜く。
叩きつける。
——三枚目。
空間が、裂けた。
それは音ではなかった。だが、音のように感じた。張り詰めていた何かが一瞬だけ緩む。見えない格子が、わずかにほどける。
固定が、剥がれる。
ほんの一瞬だけ。
高峰は、倒れ込むように前へ転がった。膝が床にぶつかる。感覚が戻る。痛みが走る。それだけで、生きていると理解する。
背後で、誰かが崩れた。固定されていた刑事の身体が、中途半端に解放され、無理な姿勢のまま落ちる。肩が外れ、骨が軋む音がした。だが完全には解放されない。再び、空間が締まる。
時間は終わる。
ほんの一瞬の自由。
それでも、致命的だった。
《……誤差》
伊能忠敬の声が、初めてわずかに揺れた。
《許容範囲を逸脱している》
高峰は息を荒くしながら、距離を取る。足は震えている。だが動く。まだ動ける。
三枚、使った。
これで終わりだ。
残っているのは、時間だけ。
そして、その時間はほとんど残されていない。
伊能忠敬がゆっくりと視線を向ける。先ほどまでの無機質な測定ではない。わずかに“修正”の意志が見える。
《再測定を行う》
測定棒が持ち上がる。
空間が再び締まる。
さきほどよりも速い。
さきほどよりも正確だ。
線が、収束する。
逃げ場がない。
足元の感覚が消えていく。位置が確定される。膝が固まる。肩が動かない。視界が固定される。
高峰は理解した。
もう、逃げられない。
札はない。
干渉もない。
修正もない。
これが、終わりだ。
呼吸が止まりかける。
瞬きが遅れる。
目が乾く。
涙が浮かび、そのまま止まる。
固定される。
完全に。
その直前だった。
空間が、裂けた。
今度ははっきりと“裂けた”と分かった。線でも、歪みでもない。そこだけ、測定が通用しない領域が生まれる。
裂け目の向こうから、何かが“落ちてくる”。
少女だった。
大鎌を持った、小柄な少女。
軽い着地音。
その瞬間、伊能忠敬の測定が、反射的に発動する。
少女の身体が、止まる。
足を踏み出した姿勢のまま、完全に固定される。
——はずだった。
「あれ?」
少女が、首を傾げる。
動いた。
固定されたはずの身体が、普通に動いた。
測定の枠の中で、何事もなかったかのように。
「なんか、邪魔」
軽く呟きながら、一歩踏み出す。
線を踏み越える。
固定されない。
伊能忠敬の“定義”が、成立していない。
《……異常》
初めて、明確な動揺が混じる。
《位置が……確定しない》
少女は、ゆっくりと近づいてくる。
高峰の横を通り過ぎる。
視線は、まっすぐ伊能忠敬へ向いている。
そして、笑った。
子供のように。
だが、底のない笑みだった。
「ねえ」
軽い声。
「それ、ちょうだい?」
伊能忠敬が、後退した。
初めてだった。
測る側が、距離を取る。
《排除対象と認識》
測定棒が振られる。
線が収束する。
だが——
届かない。
少女の位置が、確定しない。
座標が取れない。
《測定不能……》
その声に、恐怖が混じる。
少女が、さらに一歩近づく。
大鎌を肩に担ぎながら、楽しそうに言う。
「いいね、それ」
「ちゃんと壊れそう」
その言葉の意味を理解した瞬間、伊能忠敬は逃げようとした。
だが遅い。
距離が消える。
少女の姿が、目の前にある。
大鎌が、振り下ろされる。
音はない。
だが確かに、貫いた。
測定棒ごと、身体を。
その瞬間——
固定された。
今度は、伊能忠敬が。
逃げようとした姿勢のまま。
半歩後ろに引いた足。
振りかけた腕。
恐怖に歪んだ表情。
そのすべてが、完璧に固定される。
標本になる。
「動かないね」
少女が、嬉しそうに言う。
その胸元で、翡翠が鈍く光っていた。
濁った色。
すでに何かを取り込んでいる証。
伊能忠敬の目が、動く。
理解している。
これが何かを。
測られる側になることを。
終わることを。
「いいよ」
少女が、優しく言う。
「ずっといられるよ?」
その声は、甘かった。
だからこそ、恐怖だった。
次の瞬間、翡翠が脈打つ。
引き寄せられる。
固定されたまま、身体が崩れないまま、存在だけが引き剥がされていく。
《やめろ》
初めての拒絶。
《我は——》
言葉は途中で途切れる。
吸い込まれる。
逃げられない。
固定されたまま、捕食される。
ゆっくりと。
確実に。
伊能忠敬の存在が、翡翠の中へ沈んでいく。
最後に残ったのは、恐怖だけだった。
それも、すぐに消えた。
翡翠が、さらに濁る。
少女はそれを見て、満足そうに頷いた。
「うん」
「いい感じ」
そして、何事もなかったかのように振り返る。
そこには、壊れたままの人間たちが残されていた。
動けない者。
中途半端に解放された者。
壊れた姿勢のまま、生きている者。
少女は興味なさそうにそれを一瞥する。
「よかったね」
軽く言う。
それは救いでも、同情でもない。
ただの事実への反応だった。
そして、そのまま、裂けた空間の向こうへと消えていく。
あとには、静寂だけが残った。




