第37話 誤差 第1章 停滞
最初に異変に気づいたのは、家族ではなかった。
向かいの家に住む主婦が、夕方の買い物から戻ってきた時だった。住宅街の細い路地に、小学生くらいの男の子が立っている。ランドセルを背負ったまま、道の真ん中で、片足を一歩前に出した格好で止まっていた。最初は、ただ立ち尽くしているだけだと思った。親に叱られたのか、友達と喧嘩でもしたのか、そういうことは子どもにはよくある。だが、近づくにつれて、妙な感じがした。
まばたきをしない。
顔色も変わらない。
呼びかけても、返事がない。
それでも倒れない。
まるで、走り出そうとした瞬間をそのまま切り取って、そこに置いたみたいに、妙に不自然な姿勢のまま、男の子は路地に固定されていた。
「ねえ、どうしたの」
主婦は声をかけた。子どもの肩にそっと触れた瞬間、ぞっとした。固い。冷たいわけではない。体温はある。生きている人間の温度がある。だが、筋肉が緊張したまま、まるで木か石みたいに動かない。押しても、揺れない。足の裏が地面に貼りついているかのように、びくともしなかった。
男の子の目は開いていた。黒目は正面を見たまま、焦点だけがどこにも合っていないように見える。涙が少しだけ溜まっていて、それがなおさら気味が悪かった。涙は流れない。ただ、目尻に浮いたまま止まっている。
主婦は思わず手を引っ込めた。その仕草が自分でも露骨に怯えていると分かって、余計に怖くなる。周囲を見渡しても、保護者の姿はない。路地の先に古い家が並んでいるだけで、誰も出てこない。
「もしもし」
もう一度、少し強い声で呼びかける。反応はない。だが、その時、男の子の喉が、ごく小さく上下したように見えた。
主婦は息を呑んだ。生きている。死んでいるわけではない。だが、動けない。その事実が、死体を見るよりよほど不気味だった。
通報しようか迷っているうちに、近所の老人が二人、犬の散歩帰りに通りかかった。何があったのかと聞かれ、事情を説明する。老人の一人が冗談めかして「かくれんぼでもしてんじゃないのか」と言いながら男の子の前に回り込んだが、数秒後にはその顔から笑みが消えた。
「おい、これ……」
老人は、男の子の頬の横に手をかざした。呼吸はある。だが、顔の筋肉がまるで動かない。頬を軽くつついても、目蓋を指先で揺らしても、瞬きすら返ってこない。
「救急だ、救急呼べ」
誰かがそう言ったが、主婦は首を振った。
「動かないんです。押しても、全然」
通報は警察に入った。救急でもよかったのかもしれないが、どう説明していいか分からなかった。子どもが立ったまま固まっている。生きているのに動かない。そんな言い方をしても、まともに取り合ってもらえないような気がしたのだ。
十分ほどして、制服警官が二人やってきた。事情を聞き、最初は交通事故のショックか何かを疑ったらしい。だが、男の子を前にした途端、その表情が変わった。ベテランの方が前に出て、肩を掴んで揺らそうとする。だが、揺れない。踏ん張っているのとも違う。単純に、動かない。
「救急は?」
「呼んでます。今向かってます」
若い警官が答える。その声にも落ち着きがなかった。
その時、細い路地の奥から、女の悲鳴が上がった。全員がそちらを見る。犬が吠える。何事かと警官が駆け出す。主婦も、老人たちも、その場に残るべきだと頭では分かっていながら、結局は引き寄せられるように後を追った。
路地の突き当たり、古びた木造の家の前で、七十代くらいの女が尻もちをついていた。指差す先に、また一人、人がいた。今度は男だ。作業着姿で、家の門扉に片手をかけたまま、振り返る途中のような姿勢で固まっている。口が少しだけ開き、目は見開かれている。こちらも、ぴくりとも動かない。
「主人です」
女が半狂乱になって叫んだ。
「さっきまでいたんです、普通に。ゴミ出しに行くって出て、それで、急に」
警官が男に近づく。肩に手をかける。やはり動かない。喉はかすかに上下している。生きている。だが、それだけだ。
さっきの子どもと同じだ、と誰かが言った。その途端、場の空気が変わった。一件ではない。偶然ではない。何かが起きている。しかも、今この周辺で。
救急隊が到着し、ストレッチャーを持ってきた。だが、そこでさらに混乱が起きた。男を持ち上げられないのだ。重いわけではない。姿勢が固定されたまま、関節が一切曲がらず、無理に動かそうとすると、折れてしまいそうなほど不自然に強い抵抗がある。生きた人間を、家具のように扱うしかない状況に、隊員たちの顔から血の気が引いていく。
「これ、病院にどうやって運ぶんだ」
「いや、その前に原因が……」
「意識あるのか?」
「目、乾いてきてるぞ」
誰かがそう言った時、ぞっとするほど嫌な沈黙が落ちた。目が乾く。つまり、まばたきもできていない。時間は止まっていないのだ。体温もある。涙も蒸発する。乾きもする。空腹にもなる。喉も渇く。そのまま、動けないだけで。
主婦は思わず口元を押さえた。想像してしまったのだ。もしこのまま何時間も、何日も、こうだったら。立ったまま。姿勢のまま。意識だけがあって、何もできずに。
それは死ぬよりひどい、と一瞬思った。
その後、現場は慌ただしくなった。規制線が張られ、近隣住民は家に戻るよう促され、制服警官の数も増えた。だが増えたのは警察だけではなかった。通報もまた、増えていた。通信機を持った警官が早口で何かを確認している声が聞こえる。
「同種案件、近隣でさらに二件」
「いや、三区画向こうで三件追加」
「なんだよそれ、集団中毒か?」
「中毒でこうはならないだろ!」
混乱が伝染していた。
暗くなりかけた空の下で、動けない人間が三人、四人と増えていく。どれも中途半端な姿勢だった。歩き出そうとした足、振り向こうとした首、持ち上げかけた腕。日常の動作が、そのまま剥製みたいに固定されている。その異様さは、怪我や流血よりずっと生々しく、人の理性を削った。
そして、その場に高峰修一が到着したのは、通報から三十分ほど経ってからだった。
車を降りた高峰は、現場の空気を一目で読んだ。混乱している。だが、混乱の原因は“何が起きているのか分からないこと”ではない。“分かったつもりになることすらできないこと”にある。
規制線をくぐり、最初の被害者である男の子の前に立つ。制服警官が何か説明しようとしたが、高峰は手で制した。
「今、何人だ」
「確認できてるだけで七人です」
「全員、生存」
「はい。ただ……」
「動けない」
「……はい」
高峰は男の子の目を見た。焦点が合わない。だが、完全に無意識というわけでもない。見られている気がした。助けを求める意識が、微かにその目の奥に残っているように思えた。
その瞬間、高峰は理解した。これは通常の事件ではない。
現象が不自然すぎる。だが不自然さの質が、どこか既視感を伴っている。説明不能だからこそ分かる。この手の“説明不能”には、種類がある。
高峰は携帯を取り出した。
ためらいはなかった。
通話先を選ぶ。
コールが鳴る。
遠くで、また新たな悲鳴が上がった。規制線の向こう、住宅街の暗がりの中で、まだ誰かが“固定される”光景が生まれているのだと分かった。
高峰は通話が繋がるのを待ちながら、現場を見渡した。
これは、警察だけでは止められない。
そう確信していた。




