第37話 誤差 第2章 三枚の札
高峰が梓に電話を入れたのは、二人目の固定被害者が搬送不能と判断された直後だった。
現場はすでに、通常の警察案件としての体裁を失いつつある。規制線の内側では制服警官と救急隊員が声を張り上げ、規制線の外では近隣住民が遠巻きに様子を窺っている。誰もが怯えていた。だが、それは血や刃物に対する恐怖とは種類が違う。目の前にいる人間が生きたまま動かなくなり、その理由がまるで分からないことへの恐怖だった。
固定された男の子は、まだ立ったままだった。救急隊が点滴の準備を試みているが、姿勢を崩せない以上、処置にも限界がある。門扉に手をかけたまま止まっている作業着の男も同じだった。額には汗がにじみ、目は乾いて赤くなっている。それでもまばたき一つできない。身体は止まっているのに、時間だけが進んでいるのだと分かる。高峰は、その事実が何よりも嫌だった。
コール音の向こうで、ようやく梓が出た。
『高峰さん、どうされましたか』
いつも通りの声だった。落ち着いていて、平板で、わずかに冷たい。だが高峰は、その声の奥に疲労が混じっているのを聞き取った。
「残響案件だ。かなり質が悪い」
説明は簡潔にした。今は言葉を飾っている場合ではない。
「人が固定される。立ったまま、動けない。意識はある。呼吸もある。だが、関節が一切動かない。少なくとも七人。まだ増えてる」
電話の向こうで、梓はすぐには返事をしなかった。数秒の沈黙があってから、低く息を吐く気配がした。
『固定系ですね』
「心当たりがあるのか」
『あります。ただし、今すぐ向かえません』
その言葉は高峰の苛立ちを直接刺激した。分かっている。梓が好きで断っているわけではないことくらい。だが、それでも今は一秒でも惜しい。
「別件か」
『はい。こちらも切れません』
高峰は現場を見た。固定されたままの子ども。顔色の悪くなっていく男。周囲で怯え、怒鳴り、混乱する警察官たち。こうしている間にも被害者は増える。
「こっちは急いでる」
『分かっています』
梓の返答は短かった。しかし、その短さの中に、いつもよりはっきりした焦りがあった。
『だから、札を送ります』
高峰は一瞬、言葉の意味を取り損ねた。
「札?」
『量子暗号札です。遮断系の祓詞を込めます』
そこで初めて、高峰は梓が単に来られないと言っているのではなく、来られない前提で最善を組み立てているのだと理解した。
『三枚です』
「三枚」
『はい。順番があります。必ず、上から使ってください』
高峰は近くの若い刑事に目配せし、人払いをさせた。警察官たちは気にしていたが、今は説明している時間が惜しい。
「内容を聞く」
『一枚目は境界のずれを作ります。完全固定の精度を落とします。ただし、それだけでは抜けられません。二枚目は干渉を鈍らせます。固定された状態でも、ごくわずかに意思を通せるようになります。三枚目は最後です。ほんの一瞬だけ、固定を剥がします』
高峰は黙って聞いた。
『三枚とも使ってください。一枚で終わらせようとしないでください』
「それで持つのか」
『持ち堪えるしかありません』
梓の声は、そこでほんの少しだけ低くなった。
『本当は私が行くべきです。でも間に合いません。ですから、それまで持ち堪えてください』
その言葉は命令ではなく、願いに近かった。梓にしては珍しい言い方だった。高峰は返事をする前に、もう一度現場を見た。固定された人間たちは、静かに死へ向かっている。叫ぶこともできず、崩れることもできず、ただ時間だけに削られていく。
「札はどこから来る」
『中森さん経由です』
高峰は眉を寄せた。
「……あの情報屋か」
『はい。もう話は通しています。そちらに一番近い位置にいますから』
それが最適だということは分かる。分かるが、よりによって中森かという気持ちは消えない。あの男が善意だけで動く人間ではないことを、高峰はよく知っている。
「借りができるな」
『すでに私が一つ作っています』
わずかに、梓の声に皮肉が混じった気がした。
『高峰さん、絶対に深く入りすぎないでください』
「中に入らなきゃ話にならない可能性がある」
『分かっています。でも、何も持たずに踏み込めば、そのまま固定されます。見えているものを信用しないでください。境界は目では分かりません』
「分かった」
『繰り返します。札は順番に。必ず三枚です』
「分かった」
通話を切る直前、梓が一度だけ言葉を探すように黙った。
『……お願いします』
それだけ言って、通話は切れた。
高峰は携帯を下ろす。若い刑事が、どうしますかと聞きたげな顔で待っていた。高峰は短く指示を出した。規制線を広げろ、住民を下げろ、勝手に中へ入るな、触るな、固定された人間を無理に動かすな。指示を飛ばしている間にも、別の通報が入る。近くの公園。商店街の裏。住宅の庭先。場所はばらばらだが、内容は同じだった。誰かが止まっている。誰かが動かない。生きているのに、置き物みたいに固定されている。
高峰が中森と会ったのは、その十分後だった。
規制線の外れに黒い車が滑り込むように止まり、そこから中森が降りてくる。年相応に落ち着いた服装のくせに、歩き方だけが妙に軽い。場の空気に対して浮いているようでいて、実際には一番深いところを見ている目だった。
「おう、高峰」
まるで近所の世間話の続きをしに来たような口調で言う。
「忙しそうじゃねえか」
「お前の顔を見ると余計に忙しくなる」
高峰が言うと、中森は肩をすくめた。
「そう言うなよ。今回は助け船だ」
その“助け船”が信用ならないことを、高峰は何度も学習してきた。だが今日は、その軽口に付き合う余裕もない。
「札は」
「ああ」
中森は上着の内ポケットから小さな封筒を取り出した。中には三枚の量子暗号札が入っている。金属板に近い質感の薄い札で、それぞれに細かい刻印が刻まれていた。光の当たり方で、幾何学的な紋様が微かに浮かぶ。
「上から順番だとよ」
中森が言う。
「梓がうるせえくらい念押ししてきた」
高峰は封筒を受け取り、すぐに開いて中を確認した。三枚。確かにある。
「使い方は聞いた」
「ならいい」
中森はそこで少しだけ目を細めた。
「ただ、あいつがそこまで急がせるってことは、相当だぞ。固定されるだけじゃ済まねえかもしれん」
「脅してるのか」
「忠告だよ」
軽い口調のまま、中森は現場の奥を見る。固定された被害者たち。騒然とする警察。緊張で顔色を失った若い警官たち。
「昔話みてえだな」
中森がぽつりと言った。
「三枚のお札か」
高峰は一瞬だけ、その言葉に反応する。梓の意図もそこに重なって見えた。逃げ切るためではない。追いつかれるまでの時間を稼ぐための三枚。今回はそれだ。
「笑えないな」
高峰が言うと、中森は小さく笑った。
「こういう話は、だいたい笑えねえよ」
封筒を握る高峰の手に、自然と力が入る。三枚で足りるのか、という問いは飲み込んだ。足りるかどうかではない。これしかないのだ。
その時、規制線の向こうから新しい怒号が上がった。近隣住民と家族が揉めている。死んだはずの娘が帰ってきたと泣き叫ぶ母親と、そんなものはおかしいと詰め寄る隣人。警官が間に入るが、収拾がつかない。高峰はそちらを一瞥しただけで、すぐに視線を現場の奥へ戻した。
「行くのか」
中森が問う。
「行く」
高峰は即答した。
「持ち堪えろって言われたんだろ」
その言い方に、高峰はわずかに苛立つ。だが、中森の方は気にも留めていない。
「なら、使い切るまで死ぬな」
高峰は封筒を胸ポケットに入れた。
「縁起でもないことを言うな」
そう言いながらも、自分がこれから境界の内側へ踏み込むことを理解している。普通の現場ではない。物理法則でも常識でも対処できない何かが、そこにいる。
高峰はゆっくりと息を吐いた。規制線の向こう、住宅街の闇は静かだった。その静けさの中に、異常だけが濃く沈んでいる。
そして彼は、三枚の札を持って、その闇へ向かった。




