第36話 反魂 第5章 断絶
空間は静まり返っていた。先ほどまで満ちていた異様な密度は跡形もなく消え、影も歪みも、あらゆる“繋がり”が断ち切られている。ただの部屋がそこにあるだけだった。だが、“途中で壊された”という感覚だけが確かに残っている。見えないのに、消えていない。終わったはずなのに、終わっていない。そんな曖昧な違和感が、空気に残留していた。
梓はその中心に立っていた。しばらく動かず、ただその場を見ていたが、やがてゆっくりと振り返る。視線の先には水谷がいる。何も言わず、ただそこに立っている。呼吸は乱れていない。表情も変わらない。やるべきことをやった、それだけの顔だった。
「……どうしてですか」
梓の声は低く、抑えられていたが、確かに怒りを含んでいた。
「今、送れました…終わらせることができました」
言葉を選んでいる。だが、その奥にある感情は隠しきれていない。水谷は答えない。ただ視線を向けるだけだ。
「なぜ、斬ったんですか!」
短い問いだった。余計な言葉はない。それでも十分に重い。
水谷は一瞬だけ視線を外し、足元を見る。そこには何もない。だが、確かに残っている。残穢は発生している。ただし完全ではない。削られている。中途半端に、歪な形で残っている。
「……仕事だ」
短く、それだけ答える。
梓の眉がわずかに動く。
「仕事、ですか。今のが?」
問い返す声に、苛立ちが混じる。水谷は肯定もしないし否定もしない。ただ、事実だけを言う。
「滅殺した。対象は消えた」
それで終わりだと言うように。
梓の中で何かが切れる。はっきりと、音もなく。
「違います。消えていません。壊しただけです」
一歩、距離を詰める。水谷は動かない。視線も逸らさない。ただ受ける。
「……分かってる」
小さく言う。その言葉は事実だ。理解している。だが、それでも止めなかった。
「なぜですか。応じていました。納得していました。終わる準備ができていました。それを、なぜ壊すんですか」
言葉が重なる。抑えているが、確実に怒りは強くなっている。
水谷はゆっくりと顔を上げる。その目は揺れていない。
「……残るからだ」
短い一言。
梓の動きが止まる。
「修正は残らない…滅殺は残る。必要なんだ」
淡々とした説明だった。感情はない。ただの判断だ。
「……それでいいんですか」
梓が問う。静かに。
「途中でも、壊しても、ちゃんと終わらなくても」
「終わってる」
水谷は即答する。
「対象は消えた。それで終わりだ」
迷いはない。その言葉には、揺らぎが一切ない。
梓は理解する。この男は違う。見ているものが違う。終わりの意味が違う。同じ“終わらせる”でも、指しているものがまったく別だ。
「違います。それは終わりではありません。途中で断ち切っているだけです」
言葉ははっきりしている。譲らない意思がある。
水谷は一歩踏み出す。
「同じだ。結果は変わらない。残るかどうかの違いだ」
理屈としては成立している。だが、その理屈は梓には受け入れられない。
数秒、沈黙が落ちる。視線だけが交差する。どちらも動かない。だが、その間にあるものは決定的だった。
「……分かりました」
梓が小さく言う。その声には諦めが含まれている。納得ではない。理解でもない。ただ、線を引いただけだ。
「もう構いません。次からは、邪魔しないでください」
それだけ言うと、背を向ける。振り返らない。そのまま歩き出す。足音が静かに響き、やがて消える。
空間に静寂が戻る。
水谷だけが残る。
しばらく動かない。視線は落ちたまま。やがて携帯を取り出し、発信する。
『どうだ』
中森の声。
「……水谷です。終わりました」
『回収は?』
「……できています」
『量は』
「……不完全です」
間を置かず答える。
『……梓がいたな』
「はい」
『お前がやったか』
「はい」
『……そうか』
短く笑う気配。軽い調子だが、その奥は冷たい。
『修正の最中を斬ったわけだ』
「はい」
『いい判断だ』
即答だった。
『あいつは綺麗に終わらせる。だが、それじゃ足りねえ。こっちは残す必要がある。だから、お前でいい。そのままやれ』
「……了解です」
通話が切れる。
水谷はその場に立ったまま、しばらく動かない。視線を落とす。何もない床。だが確かに残っている。それでいい。そう思う。そう判断する。
その時、視界がわずかに歪む。
何もないはずの場所に、何かが重なる。人の形に近い輪郭。だがはっきりしない。認識しようとすると、形が崩れる。見えない。だが、いると錯覚する。
胸の奥が軋む。理由は分からない。記憶もない。だが、体が拒絶する。強く、明確に。
一瞬で消える。
何もなかったかのように。
水谷は動かない。何も言わない。ただ、その違和感を押し込めるように息を整える。
そして、歩き出す。
足音だけが静かに響き、やがてその場から消えた。




