第4話 恐山・修行残響編 その5 戻れる場所
風の音が、最初に聞こえた。
意味じゃない。声でもない。ただの、山の音。
次に、冷たい地面の感触。
黒ずんだ石の硬さと、硫黄の匂い。
それから——
誰かの手。
「……真名井」
耳元で低い声がした。
「聞こえるか」
高峰修一だった。
「こっち見ろ」
真名井梓は、ゆっくりと瞼を開ける。
くすんだ灰色の空。
湯気を吐く地面。
乱雑に並ぶ地蔵たち。
「戻ったようだな」
高峰が、すぐそばで屈んでいる。
「戻りました」
梓は小さく息を吐いた。
高峰は無言で彼女の表情を観察していた。
取り繕いじゃなく、本当に“戻ったか”を確認している目だ。
「三分ほど反応が途切れた」
「心拍と呼吸は安定してたが、
意識への応答が完全に切れてた」
「また、深く潜ったな」
「……今回は、自分で潜りましたから」
梓はゆっくり体を起こす。
ふらつきはない。
頭の中だけが少し静かすぎる。
背後では救急隊員が担架を準備していた。
少し離れた場所で、ひとりの女性が座らされている。
毛布を肩に掛けられ、
湯気の向こうをぼんやり見つめていた。
さっきまで、
誰かと話していた場所を。
でも、そこにはもう何もない。
「被害者は三人だ」
高峰が淡々と言う。
「全員、生命兆候は安定」
「ただし……」
一拍置く。
「記憶の一部が抜けてる可能性が高い」
梓は女性に目を向けた。
彼女は自分の指を見つめている。
何かを探しているようで、
でも、それが何かはもう分かっていない目だった。
「本人は?」
梓が小さく問う。
「誰かに会いに来た記憶はあるらしい」
高峰が答える。
「だが、その“誰か”の像が出てこない」
「名前も、関係も、
輪郭ごとすっぽ抜けてる」
梓は、何も言わなかった。
残された空白の重さだけを、感じていた。
「残響は?」
「消えてない」
高峰は即答した。
「だが、山全体を覆ってた干渉は消えた」
「場に染み込んだ自己反映型残響だ」
「完全消滅じゃない」
梓は頷く。
「修正できた、ということですね」
「今のところはな」
高峰は小さく肩をすくめた。
観光客たちが、規制線の外から様子を窺っている。
何事もなかったように。
ただの観光地として。
「……真名井」
高峰が声を落とす。
「今日、何を見た」
梓はすぐには答えなかった。
地面を見る。
黒く湿った土。
「壊れたものは、なかったことにできません」
「消したら、それは虚無になります」
「だから、私は直します」
高峰はふっと鼻で息を吐いた。
「相変わらず、手間のかかる考え方だな」
「承知してます」
梓は淡く笑う。
「でも、楽な仕事じゃないから続けられるんです」
そのとき、端末が震えた。
【中森】
通話を開く。
『よぉ、生還したか』
中森の声は軽い。
いつも通りのビジネス調子に、少しだけ軽口が混ざっている。
「ええ。まだ首はついてます」
『そりゃよかった。
また葬式代出すハメになるかと思ったぞ』
「冗談きついですね」
『安心しろ、経費は下りねぇからな』
軽く笑う気配だけがあった。
『で、恐山はどうだ』
「安定はしました。
完全消滅ではありません」
『だろうな。
ああいう場所は“消える”より“溜まる”方が得意だ』
『ログは送っとけ。
あとで目ぇ通す』
「了解です」
一拍。
『真名井』
珍しく、名前に少しだけアクセントが乗った。
「何です」
『自分の頭ん中、ほじくりすぎるなよ』
『掘りすぎると、
何がどっちの記憶かわかんなくなる』
梓は、少しだけ間を置いた。
「……気をつけます」
『気をつけろじゃなくて、
ほどほどにしとけ』
『お前は職人なんだから』
ブツ、と通話が切れた。
苦笑が漏れる。
高峰が横で小さく言った。
「……相変わらずだな、あの人」
「中森さんですから」
「呼び捨てじゃないのか」
「年上には、一応“さん”です」
高峰は「らしいな」とだけ呟いた。
梓は再び、山の奥を見る。
何かはまだ残っている。
だが、今日はもう追わない。
「……戻れる場所があるのは、悪くないですね」
梓が言う。
高峰は前を見たまま、答えた。
「戻ってこれるうちはな」
硫黄の風が、静かに通り抜ける。
恐山は、また黙る。
残響は終わらない。
それでも——
真名井梓は、まだ地面に立っていた。




