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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている
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第4話 恐山、死者が集う丘 第4章 呼ぶもの

「保護していた女性がいなくなりました!」


 若い刑事の声が静かな山へ響いた。


 高峰は駆け出す。


 梓も一歩遅れて後を追う。


 救護所の簡易テントは開いたままだった。


 毛布だけが地面へ落ちている。


「いつです。」


 高峰が救急隊員へ尋ねる。


「ほんの一分ほど前です。」


「目を離した隙に……。」


「歩いて出ていきました。」


 高峰は周囲を見渡す。


「走ってない。」


 救急隊員が首を振る。


「普通に歩いていました。」


「呼び止めても振り返らなくて……。」


 その時だった。


「警部補!」


 規制線付近にいた警察官が叫ぶ。


「いました!」


 全員が同じ方向を見る。


 谷へ続く遊歩道。


 一人の女性が、ゆっくり歩いていた。


 裸足だった。


 病衣の裾を風へ揺らしながら、一歩ずつ前へ進んでいる。


 急がない。


 迷わない。


 まるで目的地が決まっているような歩き方だった。


「止まりなさい!」


 高峰が叫ぶ。


 女性は反応しない。


 その横顔には、穏やかな笑みだけが浮かんでいた。


「もう少し……。」


 女性が小さく呟く。


「うん。」


「分かってる。」


 誰かへ返事をしている。


 だが、その先には誰もいない。


 高峰は歩幅を速める。


「止まれ!」


 あと十メートル。


 女性は少しだけ顔を上げた。


「やっと会えたんだから。」


 その声は優しかった。


 恋人へ話し掛けるような。


 家族へ微笑むような。


 懐かしい誰かへ向ける声だった。


 梓は足を止める。


 胸元へ手を伸ばし、量子暗号札を静かに取り出した。


「高峰さん。」


 声は落ち着いていた。


「目を合わせないでください。」


 高峰は振り返らない。


「理由は。」


「まだ断定できません。」


 梓は女性から視線を外さず答える。


「ですが、呼ばれます。」


 高峰には意味が分からなかった。


 それでも梓の声には、今までにない緊張が滲んでいた。


 女性は立ち止まる。


 谷まで、あと数歩。


 風が吹く。


 硫黄の匂いが一段と濃くなる。


「帰ろ。」


 女性が微笑んだ。


「みんな待ってる。」


 その瞬間だった。


 声の響きが、変わる。


 人の声ではない。


 男でもない。


 女でもない。


 幼くも老いてもいない。


 感情だけが残ったような、不自然な響き。


《帰ろう。》


 梓の瞳が静かに細くなる。


「やはり……。」


 その声は、高峰には聞こえていなかった。


 聞こえているのは、女性だけ。


 だが、その異変に気付く者が、もう一人いた。


「危ない!」


 若い刑事が女性へ駆け寄る。


 手を伸ばし、その肩を掴む。


 女性がゆっくり振り返る。


 若い刑事の動きが止まった。


 表情から血の気が消える。


 女性を見ていない。


 その向こうを見ている。


「……父さん。」


 小さな声だった。


 梓は静かに目を閉じる。


「始まりました。」


 その言葉だけが、硫黄の風へ静かに溶けていった。


 若い刑事は女性の肩へ手を掛けたまま動かない。


 視線だけが、その向こうへ向けられていた。


「……父さん。」


 掠れた声だった。


 高峰はすぐに刑事の腕を掴む。


「しっかりしろ。」


 返事はない。


 目の焦点が合っていなかった。


 誰かを見ている。


 だが、その先には誰もいない。


「父さん……。」


 若い刑事の頬を涙が伝う。


「どうして。」


「どうして、あの日……。」


 高峰は肩を強く揺する。


「目を覚ませ!」


 反応はない。


 梓は量子暗号札を二枚、左手へ挟んだ。


 まだ祓詞は唱えない。


 視線だけが女性と若い刑事を静かに追っていた。


「高峰さん。」


「近付かないでください。」


 高峰は振り返らない。


「何が起きてる。」


「見えているものは現実ではありません。」


「ですが、本人には現実です。」


 その言葉の意味を理解する前に、若い刑事がゆっくり歩き始めた。


 谷の方角へ。


 女性と同じ歩幅で。


 迷いなく。


「待て!」


 高峰が腕を掴む。


 若い刑事は初めて抵抗した。


「離してください!」


 普段の彼からは想像できないほど強い力だった。


「父が待ってるんです!」


「そこにいます!」


「だから帰らないと!」


 高峰は力任せに引き戻す。


「誰もいない!」


「落ち着け!」


「います!」


 若い刑事は必死だった。


 涙を流しながら、谷を指差す。


「笑ってるんです!」


「父が!」


 その瞬間だった。


 高峰も反射的に谷へ目を向ける。


 白い噴気が揺れる。


 その向こう。


 一瞬だけ。


 誰かが立っていた。


 白い服。


 こちらを見ている。


 男か女かも分からない。


 顔だけが、どうしても思い出せない。


 次の瞬間には、噴気だけが残っていた。


 高峰は目を見開く。


「……今。」


 思わず呟く。


「誰かいた。」


 梓は静かに高峰を見る。


「見えましたか。」


「いや。」


 高峰は首を振る。


「見間違いだ。」


 そう言いながらも、自分の声に自信はなかった。


 梓は再び谷を見つめる。


「いいえ。」


「見え始めています。」


 静かな口調だった。


 その言葉だけが、高峰の胸へ重く残る。


 風が吹いた。


 硫黄の匂いが一段と濃くなる。


 女性は笑っている。


 若い刑事も笑っている。


 二人とも同じ方向を見たまま、一歩ずつ谷へ近付いていく。


 高峰は歯を食いしばり、若い刑事の腕を離さなかった。


 その時。


 梓は静かに量子暗号札を持ち上げる。


 指先へ挟まれた銀色の札が、風を受けて小さく震えた。


「これ以上は。」


 小さく息を吸う。


「行かせません。」


 静かな決意だけが、その場へ落ちた。

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