第33話 幻視 第1章 見えてしまったもの
夜の路地は、静かすぎた。
住宅街の一角。風もない。街灯の光だけが、均等に地面を照らしている。
違和感が無さ過ぎる。
そんな疑念があった。
男は歩いていた。
スーツ姿。手にはコンビニの袋。
帰り道。
それだけのはずだった。
足が止まる。
「……なんだ?」
前方。
街灯の下。
女が立っている。
白い服。長い髪。顔は見えない。
ただ、それだけ。
だが、動かない。
風がない。
髪も揺れない。
呼吸も見えない。
「……おい」
返事はない。
一歩、近づく。
そのとき。
「影が無い…」
女の足元に、何もない。
自分の影はある。
女には、ない。
視線を逸らす。
地面を見る。
何もない。
もう一度、見る。
いる。
同じ場所に。
同じ姿で。
同じ距離で。
「……ヤバいやつか?」
後ずさる。
一歩。
距離は、変わらない。
もう一歩。
変わらない。
「……は?」
女は動いていない。
なのに、近い。
視線を外す。
横を見る。
空き家の塀。
誰もいない。
視線を戻す。
いる。
変わらない。
「……なんで!?」
口から出る。
それで、決まる。
近づく。
足が動く。
止まらない。
三メートル。
二メートル。
女の顔が近づく。
髪の奥。
何もない。
目がない。
だが、見ている。
「……やめろ、くるな!」
女は動かない。
次の瞬間。
目の前にいる。
「う、あ……!」
後ろに下がる。
足がもつれる。
倒れそうになる。
女は、そこにいる。
触れていない。
だが、触れている気がする。
離れない。
視界から外れない。
目を閉じる。
暗闇。
だが。
いる。
同じ位置に。
同じ姿で。
消えない。
「……やめてくれ!」
声が震える。
視界が歪む。
別のものが混ざる。
知らない部屋。
知らない女。
倒れている。
子どもが泣いている。
「……誰だよ……!」
消えない。
重なっている。
現実と。
他人の記憶が。
「これ、俺じゃない……」
分かる。
分かってしまう。
自分じゃない。
なのに、知っている。
やめろ。
やめろ。
女は、そこにいる。
ずっと。
同じ距離で。
同じ姿で。
動かない。
逃げても、無駄だ。
見ていなくても、いる。
まぶたの裏にも。
同じ位置に。
消えない。
女が、わずかに首を傾ける。
音はない。
だが、聞こえる。
《そこに居る》
身体が止まる。
《見えておろう》
否定する。
「……いるわけ無い!」
《否むな》
すぐに返る。
間がない。
《形は、そこにある》
女は動かない。
ただ、いる。
それだけが増えていく。
理解が崩れる。
何が現実か分からない。
だが、一つだけ残る。
いる。
それだけ。
呼吸が乱れる。
視界が白くなる。
膝が崩れる。
地面に手をつく。
冷たい。
はずなのに、分からない。
女は、最後まで。
そこにいた。
《見すぎるな》
遅い。
男の意識が落ちる。
それでも。
最後まで。
いた。
⸻
翌朝。
同様の事案が二十数件。
外傷なし。
意識は戻らない。
視線は固定されたまま。
何もない場所を見ている。
同じ言葉だけを繰り返す。
「いる、居るんだ…」
それだけを。




