表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
182/234

第32話 灯火 第5章 境界の熱

 目を開けた瞬間、音が戻った。


 空調の低い振動。

 遠くの足音。

 金属製のワゴンが押される音。


 現実だ。


 消毒液の匂いが鼻を刺す。

 白い天井。

 白い壁。

 白い照明。


 世界は正常に見える。


 だが胸の奥だけが、異様だった。


 熱が残っている。


 火傷のような痛みではない。

 内側に灯っている、消えない熱。


 何かが起きた。

 だが何が起きたのか、言葉にならない。


 祓詞ではなかった。

 自分が命じたわけではない。


 ただ――


 世界が、動いた。


 その感触だけが、鮮明だ。


 梓はゆっくりと上半身を起こす。

 身体は重い。だが壊れてはいない。


 果心居士の最後の狼狽が蘇る。


《消去だ》


 違う。


 消していない。


 だがあの存在は、もう動かない。


 固定。


 凍結。


 永久停止。


 梓は深く息を吸う。


 自分は、あれを望んだのか。


 望んでいない。


 ただ、消えたくなかった。


 消えさせたくなかった。


 後悔に押し潰されるのは、もう嫌だった。


 それだけだ。


 それだけの感情が、世界を動かした。


 胸の熱が、ゆっくりと脈打つ。


 怖い。


 だが、嫌悪はない。


 あの瞬間、自分は逃げなかった。


 消える道を選ばなかった。


 それだけは、はっきりしている。


 祓屋として正しかったのかは分からない。


 だが、人間としては間違っていない。


 梓は、静かに目を閉じる。


 結衣。

 水谷。

 愛音。

 原澤。


 守れなかったものは多い。


 だが、まだ終わっていない。


「……進む」


 小さく呟く。


 祓屋は修正する者だ。


 だがそれだけでは足りない。


 境界に立つ。


 揺れながらでも立ち続ける。


 消えないために。


 消させないために。


 胸の熱は、炎ではなく灯火だ。


 暴走ではない。


 制御できる。


 少なくとも、今は。


 そのとき、携帯が震えた。


 高峰だ。


 梓は一拍置いてから通話を取る。


『生きてるな』


 いつものぶっきらぼうな声。


「はい」


 短く答える。


『病院の件、落ち着いた。増えてた失踪も止まった。あの医者の履歴、穴だらけだ。写真が一致しねぇ。経歴が途中で消えてる』


 梓は静かに頷く。


「残響です」


『ああ。お前の言う通りだった』


 一拍。


『……何をした』


 問いは、責めではない。


 確認だ。


「修正しました」


 事実だけを言う。


 高峰は沈黙する。


『現場、妙に静かだ。嫌な静けさだが……前みたいな歪みはない』


「もう同じことは起きません」


 言い切る。


 根拠は説明できない。

 だが確信がある。


 高峰が小さく息を吐く。


『……吹っ切れた顔してるな』


 梓は少しだけ驚く。


 見えているのだろうか。声に。


「吹っ切れたわけではありません」


 正直に言う。


「迷いはあります。でも」


 言葉を選ぶ。


「逃げません」


 高峰が、低く笑う。


『上等だ』


 すぐに声が戻る。


『今後も協力してくれ。正直、警察だけじゃ追えねぇ』


「はい」


 迷わない。


『死ぬなよ』


「……はい」


 通話が切れる。


 梓は携帯を握ったまま、しばらく動かない。


 吹っ切れたわけではない。


 揺らぎは消えない。


 だが、揺らぎごと立つ。


 それが今の自分だ。


 境界に立つ。


 その言葉の意味を、まだ完全には知らない。


 だが足は前を向いている。



 場面が変わる。


 中森安行は、暗い事務所で端末のログを見つめていた。


 微細な波形。


 通常の祓いでは出ない振幅。


 深層干渉の痕跡。


「……触れたな」


 低く呟く。


 祓屋が世界に頼む形ではない。


 世界が自ら動いたログ。


 転位侵界。


 中森の指が机を叩く。


 原澤の声が蘇る。


――あの子は強い。だが危うい。


――寄り添いすぎる。


――境界を越えかねない。


 当たった。


 早すぎるが、当たった。


「原澤……」


 煙草に火を点ける。


「お前の読みは正しかった」


 紫煙が揺れる。


 転位侵界に触れる祓屋は、少ない。


 触れたまま戻れなくなる。


 梓はまだ戻っている。


 だが、火は残った。


 中森はログを閉じる。


「世界を壊すか、支えるか」


 誰に言うでもなく呟く。


「境界に立つ奴は、どっちにも転ぶ」


 煙を吐き出す。


「……面倒な未来だな」


 だが止める気はない。


 止めれば、別の歪みが生まれる。


 均衡は常に不安定だ。


 中森は、椅子に深く座り直す。


「原澤、お前がいねぇ今、どう舵を取る」


 答えはない。


 夜は静かだ。


 だが世界の深層では、まだ熱が残っている。


 梓の胸の奥と、同じ熱が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ