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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第32話 灯火 その3 消えない影

 闇は、まだそこにあった。


 果心居士の世界。

 後悔で編まれた、逃げ場のない檻。


 だが――


 先ほどまでとは、何かが違っていた。


 静かすぎる。


 泣き声が消えている。

 責める声も。

 青木理の幻影も。


 すべてが、一瞬だけ止まっている。


 梓は膝をついたまま動かなかった。


 いや、動けないのではない。

 動く必要がないのだ。


 何かが変わった。


 自分の内側で。


 痛みはある。

 喪失もある。

 後悔も、消えていない。


 だが――


 潰されていない。


 押し流されていない。


 飲み込まれていない。


 ただ、そこにある。


 自分のものとして。


 それを認識した瞬間、

 空気が軋んだ。


《……おかしい》


 果心居士の声が低く響く。


《まだ残るのか》


 闇がざわめく。


 無数の後悔が、形を失い始める。

 像が歪み、輪郭が崩れる。


《通常ならば、ここで終わる》


 静かな声。


 だが、その奥に焦りが混じっている。


《自我は崩れ、存在は溶ける》


 闇が収縮する。


 圧縮。


 消去。


 再試行。


《なぜだ》


 梓はゆっくり顔を上げた。


 視界はまだ歪んでいる。

 だが、闇の向こうが見える。


 巨大な影。


 人の形をした歪み。


 顔のない顔。


 果心居士。


「……分からない」


 声はかすれている。


 だが、確かに出た。


「でも……」


 胸の奥に、何かがある。


 熱。


 火ではない。

 怒りでもない。


 もっと静かなもの。


 消えないもの。


「……まだ、終わってない」


 言葉が落ちる。


 その瞬間――


 空間が震えた。


 ひび。


 闇に亀裂が走る。


《……》


 果心居士が沈黙する。


《……それは》


 声が低くなる。


 初めて、確信を持てない声。


《何だ》


 梓自身にも分からない。


 ただ感じる。


 内側にある何かが、

 周囲の闇と相容れない。


 後悔はある。


 絶望もある。


 だが――


 それだけではない。


 青木の笑顔。

 原澤の穏やかな声。

 高峰の不器用な優しさ。

 水谷の背中。

 愛音の問い。


 全部が混ざっている。


 痛みと一緒に。


 消したくないものとして。


「……私は」


 言葉が続かない。


 喉が震える。


 だが、言わなければならない。


「……消えたくない」


 静かな宣言。


 泣き叫びではない。


 懇願でもない。


 ただの事実。


 その瞬間――


 闇が後退した。


《……》


《……》


 果心居士は動かない。


 いや、動けない。


《……それは、ありえない》


 声が歪む。


《この術は、後悔に同化する》


《抗うことはできぬ》


 梓はゆっくり立ち上がった。


 足は震えている。

 体も重い。


 だが、立てる。


 地面がある。


 足場がある。


 存在がある。


「……後悔は、ある」


 小さく言う。


「でも……それだけじゃない」


 闇がさらに退く。


 像が崩れる。


 青木の幻影が砂のように消えていく。


《……》


 果心居士の声が低く沈む。


《なるほど》


 静かな理解。


《執着か》


 言葉に冷たい嘲りが戻る。


《過去に縛られながら、手放さぬ》


《愚かだ》


 闇が再びうねる。


 今度は重い。


 質量を伴う圧力。


《ならば、すべて断てばよい》


 無数の手が現れる。


 黒い腕。

 影の指。

 人の形をした怨念。


 梓へ向かって伸びる。


《思い出も》


《絆も》


《意味も》


《すべて、切り離す》


 触れれば終わる。


 存在の分解。


 人格の消去。


 梓は逃げなかった。


 動かなかった。


 ただ見ている。


 近づいてくる闇を。


 そして――


 胸の奥の熱を。


 言葉にならない何か。


 原澤が言った言葉。


 祓屋は――戻すだけ。


 消すのではない。


 奪うのではない。


 戻す。


 その意味。


 その重さ。


 その苦しさ。


 全部が、ここにある。


「……私は」


 声が震える。


「……まだ、諦めてない」


 その瞬間。


 手が触れた。


 闇の指が、胸に届く。


 冷たい。


 凍るような感覚。


 だが――


 侵食しない。


 砕けた。


 影の腕が。


《……何!?》


 果心居士の声が揺れる。


 初めて。


 明確に。


《……防いだ?》


 梓は自分の胸を見た。


 光ではない。


 炎でもない。


 ただ――


 熱。


 存在の核。


 言葉にできない何か。


《……それは》


 果心居士が低く呟く。


 理解した者だけが持つ声音。


《人の領域ではない》


 空間が軋む。


《何に触れた》


 梓は答えない。


 答えられない。


 自分でも分からないから。


 ただ、確信だけがある。


 これは――


 消えるためのものではない。


 戻るためのものだ。


《……なるほど》


 果心居士の声が沈む。


《危険だ》


 今度ははっきりした恐怖が混じる。


《人が持つべきではない》


 闇が後退する。


 初めて、距離を取る。


《まだ未完成》


《だが――》


 声が歪む。


《ここで消さねば》


 空間全体が揺れる。


 圧縮が始まる。


 世界ごと潰す。


 消去ではない。


 破壊。


 最終手段。


《消えよ》


 重力のような力が落ちる。


 上も下もなく、

 全方向から押し潰す圧力。


 骨が軋む。

 呼吸が止まる。


 視界が暗転する。


 それでも――


 梓は目を閉じなかった。


 そして。


 胸の奥の熱が――


 脈打った。


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