第32話 灯火 その2 刃を持つ理由
中森安行は、煙草を灰皿に押しつけた。
火が消えた瞬間、室内の匂いが変わる。
焦げた葉の甘い残り香と、湿った紙の臭い。
換気扇は回っているが、空気は入れ替わらない。
窓は閉じたままだった。
外は昼のはずだが、カーテンを開ける気にならない。
光は情報を運んでくる。
今は、何も知りたくなかった。
机の上には、封筒が一つ。
開封されている。
中身はすでに取り出され、無造作に置かれていた。
黒い紙。
封印用の札。
残穢の反応がある。
ごく微量。
だが、確実に。
「……ったく」
中森は背もたれに体を預けた。
「原澤、お前……最後まで面倒なもん残しやがって」
声は低く、苛立ちと諦めが混ざっている。
札は、原澤の遺留品だった。
高野山の火災跡から回収されたもの。
奇跡的に焼けずに残っていた。
いや、焼けなかったのだ。
中身が“燃えないもの”だから。
残穢。
凝縮された、削り落とされた異物。
通常の祓屋は持ち帰らない。
修正の過程で霧散するのが普通だ。
だが原澤は、持ち帰っていた。
集めていた。
中森が必要だったからだ。
「……義理堅いな」
引き出しを開ける。
中には薬瓶が並んでいた。
無色透明。
水のように見える。
だが、それは水ではない。
精製された残穢。
毒でもあり、薬でもある。
人間が触れていいものではない。
だが――
「これがなきゃ、留まれねぇ…」
誰に言うでもなく呟く。
静かな部屋の奥から、かすかな音がした。
電子音。
医療機器のモニター。
中森は振り向かない。
見なくても分かる。
奥の部屋にあるベッド。
そこに横たわる小さな身体。
管。
装置。
微弱な脈拍表示。
生きている。
だが、世界に定着していない。
神降ろしの失敗。
神事の血筋。
人の身で神を器にした結果。
残ったのは――
不完全な存在。
現世に留まるために、異物を必要とする身体。
「お前がいなくなったら、終わりだって言ったろうが……」
苛立ちが漏れる。
だが怒りではない。
恐怖に近い。
時間がないという焦り。
中森は再び札を見た。
原澤は知っていた。
自分がいなくなった後のことを。
だから残した。
残穢を。
道具を。
そして――
「……あの娘、か」
真名井梓。
修正屋。
危ういほどに、人間の側に立つ祓屋。
残穢を扱わない。
削除を選ばない。
徹底して“戻す”ことに固執する。
理想主義。
愚かしいほどに。
だが――
「一番壊れやすい」
中森の声は低い。
経験から来る断定。
正しさだけで立つ人間は、
正しさが揺らいだ瞬間に崩れる。
そして今、梓は揺らいでいる。
原澤。
水谷。
愛音。
修正できなかった現実。
守れなかった命。
理解できない存在。
全部が、梓の基盤を削っている。
「……最悪のタイミングで、最悪の相手に当たったな」
果心居士。
人の後悔を餌にする残響。
相性が最悪だ。
梓は過去に縛られている。
喪失を抱えたまま歩いている。
そこを突かれれば――
「消える」
中森は断言した。
あの手のタイプは、
殺すより消すほうが簡単だ。
自分で諦めるからだ。
煙草を取り出す。
火をつける。
深く吸う。
肺が焼けるような感覚。
それでようやく現実が戻る。
「……結衣」
ぽつりと名前が漏れる。
銀髪の少女。
刃。
滅殺者。
あれは壊れなかった。
最初から壊れていたからだ。
だから強い。
迷いがない。
戻すという概念がない。
「だが、梓は違う」
あれは人間だ。
普通の心を持ったまま、
異常の中に立っている。
だから危険。
そして――
「一番、侵界に近い」
言葉を出した瞬間、
中森は舌打ちした。
「……冗談じゃねぇ」
あれに触れたら終わりだ。
人間ではいられなくなる。
世界側に寄る。
正しさの判断が消える。
だから原澤は教えなかった。
使わせなかった。
だが今――
「追い詰められりゃ、何やるか分からん」
中森は立ち上がった。
奥の部屋を見る。
扉は閉じている。
開けない。
開ければ、決意が揺らぐ。
「……頼むから、消えるなよ」
誰に向けた言葉か分からない。
梓か。
原澤か。
娘か。
あるいは――自分か。
そのとき、モニターの音が一瞬乱れた。
ピッ――と、不規則な波形。
中森の目が細くなる。
「……来たか!?」
直感だった。
理屈ではない。
長年、残響と関わってきた者の勘。
空気が変わる。
見えない圧力。
世界の更新がずれたような感覚。
誰かが、境界に触れている。
しかも――
かなり深い位置で。
「……あの馬鹿」
中森は舌打ちした。
恐れていた事態。
最悪の選択。
だが、まだ確定ではない。
まだ――
「耐えろ、梓」
低く、しかし強く言う。
「そこを越えたら、戻れねぇ」
誰にも届かない言葉。
だが確かに、世界のどこかへ放たれた。
そしてその瞬間。
果心居士の領域では――
消去が、停止しかけていた。




