第32話 灯火 その1 消去の直前
世界は、静かだった。
静かすぎるほどに。
音がないのではない。
音が届かない。
遠くで何かが崩れている。
人の叫びのようなものも聞こえる。
だがそれは、水の底から見上げた雷のように、形だけが伝わってくる。
真名井梓は、そこに立っていた。
立っている――はずだった。
自分の足が地面に触れている感覚がない。
重力があるのかどうかも分からない。
ただ、ここにいるという事実だけが、かろうじて残っている。
視界は白い。
白というより、色が抜け落ちたような世界。
遠近も、陰影も、空気の厚みも存在しない。
何もない。
だが、虚無ではない。
何かが、そこにある。
確実に。
目に見えないだけで。
「……」
声を出そうとした。
出なかった。
喉が動かない。
呼吸の感覚もない。
自分が生きているのか、死んでいるのかすら判断できない。
恐怖すら、薄れている。
恐怖は、危険を知らせるための感情だ。
だがここには、危険の輪郭がない。
あるのは、ただ一つ。
消えていく感覚。
指先が曖昧だ。
見下ろすと、手の輪郭がぼやけている。
煙のように揺らぎ、形が定まらない。
存在が、薄くなっている。
(……だめ……)
思考が遅い。
言葉が浮かぶまでに、時間がかかる。
いや、時間という概念すら曖昧だ。
どれだけここにいるのか分からない。
永遠かもしれない。
一瞬かもしれない。
ふと、気づく。
何かが、正面にいる。
いつからそこにいたのか分からない。
最初からいたのかもしれない。
老人だった。
白髪。
穏やかな顔。
医師の白衣。
精神病院の院長、畑中克彦。
――そう見えるだけの存在。
その瞳だけが、異様だった。
優しい。
深い。
底がない。
井戸の底を覗いたとき、
そこに水面がないことに気づいたような感覚。
《お辛いでしょう》
声は、直接頭の中に届いた。
耳を通っていない。
鼓膜を震わせていない。
言葉そのものが、思考の中に落ちてくる。
《もう、頑張らなくてもいいのですよ》
否定したかった。
だが、できない。
その言葉は優しすぎた。
抵抗する理由が見つからないほどに。
《あなたは、十分苦しみました》
白い空間に、影が浮かぶ。
人影。
倒れている。
血に濡れている。
銀髪の男。
水谷真。
自分を庇って斬られた瞬間。
肉が裂ける音。
骨に刃が当たる感触。
あのときの生暖かい飛沫。
記憶が、現実より鮮明に蘇る。
《あなたのせいではありません》
違う。
否定したい。
だが――
否定できない。
判断の甘さ。
躊躇。
救えるかもしれないという幻想。
すべてが、あの結果を招いた。
《誰も責めていません》
責めている。
自分が。
《あなたは優しすぎる》
違う。
未熟だっただけだ。
だが、その言葉も出てこない。
思考が遅い。
抵抗が弱い。
消えかけた火のように、力が入らない。
《だから苦しいのです》
新たな影が浮かぶ。
炎。
焼け落ちる山。
帰ってこなかった祓屋たち。
そして――原澤伸。
最後に見た穏やかな背中。
あの声。
守られる側。
何もできなかった。
何も守れなかった。
《あなたは、何も悪くありません》
違う。
悪い。
自分が弱いからだ。
弱いくせに、助けようとするからだ。
弱いくせに、諦めないからだ。
弱いくせに――
《消えてしまえば、すべて終わります》
老人は微笑んだ。
恐ろしいほど、慈悲深い表情で。
《痛みも、後悔も、責任も》
《すべて、ここで終わらせてあげましょう》
消える。
その言葉に、拒絶が起きない。
恐怖が湧かない。
ただ、理解してしまう。
それが最も楽な選択だと。
戦わなくていい。
迷わなくていい。
誰も傷つけなくていい。
何も背負わなくていい。
消えれば。
――楽になる。
そのとき、初めて気づく。
足元が透けている。
膝から下が、存在していない。
境界が曖昧になり、白に溶けている。
消えている。
すでに。
ゆっくりと。
確実に。
老人――果心居士は静かに言った。
《安心してください》
《苦しみはありません》
《ただ、忘れていくだけです》
忘れる。
自分が誰だったのか。
何を願ったのか。
何を失ったのか。
すべて。
それは死ではない。
死には、痕跡が残る。
記憶が残る。
物語が残る。
これは違う。
存在しなかったことになる。
この世に一度もいなかったかのように。
梓の喉が震える。
声は出ない。
だが、思考だけが浮かぶ。
(……いや……)
小さすぎる抵抗。
波紋にもならない。
果心居士は、初めてわずかに首を傾げた。
《……まだ、抗いますか?》
その声には怒りも苛立ちもない。
純粋な疑問。
理解できない、という反応。
《なぜです?》
《あなたは、もう救われない》
《何も取り戻せない》
《何も守れない》
一歩、近づく。
距離の概念があるのか分からないが、
確実に近づいたと感じる。
《……それでも、残りますか?》
梓の視界が揺れる。
意識が薄れる。
思考が崩れる。
言葉にならない感情だけが、わずかに残る。
怖い。
消えることが怖いのではない。
消えることを受け入れてしまう自分が怖い。
それが最後の抵抗だった。
果心居士は静かに目を細めた。
《……そうですか》
その声音に、わずかな確信が混じる。
勝利の確信。
《では、終わりにしましょう》
空間が、さらに白くなる。
輪郭が消える。
記憶が崩れる。
名前が思い出せない。
自分が誰だったのか分からない。
すべてが、遠くなる。
遠く――
遠く――
そのとき。
胸の奥で、何かがかすかに疼いた。
痛みではない。
熱でもない。
灯りのようなもの。
消えかけた暗闇の中に、
最後まで残ろうとする一点。
果心居士の表情が、初めて変わる。
ほんのわずかに。
理解できないものを見たときの顔。
《……?》
その違和感は、まだ小さい。
だが確実に。
消去の過程に、異物が混ざっている。
梓はまだ気づいていない。
それが何なのか。
なぜ残っているのか。
ただ――
完全には消えていない。
その事実だけが、
果心居士にとって初めての誤算だった。




