第31話 戻れない日常 その5 高野山
連絡が届いたのは、深夜だった。
原澤はすでに寝ているはずの時間に、居間の明かりをつけていた。
卓上の端末に、見慣れない符号列が表示されている。
梓は水を飲みに起き、異様な空気に気づいた。
「何か……あったんですか?」
原澤は振り向かない。
「協力要請です」
声は穏やかだが、硬い。
「高野山から」
その地名だけで空気が変わる。
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画面には断片的な報告が並んでいた。
僧侶同士の斬り合い。
原因不明の錯乱。
夜間の武装集団の目撃。
鎧武者の亡霊。
死者多数。
どれも現実離れしている。
だが祓屋の世界では現実だ。
「現地の祓屋では対処不能とのことです」
原澤は静かに言う。
「強力な残響の可能性が高い」
梓の喉が乾く。
「同行します」
反射的に言葉が出た。
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原澤はようやく振り向いた。
その目に、わずかな困惑がある。
「いいえ」
即答。
「今回は留守番をお願いします」
「ですが――」
「危険度が違います」
遮られる。
怒りではない。
事実の提示。
「あなたを連れていく理由がありません」
残酷なほど冷静だった。
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梓は何も言えなくなる。
守られている。
まだ戦力ではない。
理解はできる。
だが納得はできない。
「……すぐ戻ります」
原澤は荷物をまとめ始める。
最小限の装備だけ。
無駄がない。
「数日で終わるでしょう」
いつもの穏やかな声。
その言葉を信じたいのに、胸がざわつく。
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出発は夜明け前だった。
玄関で靴を履く原澤の背中は、いつもと変わらない。
ただ、異様に静かだった。
「戸締まりを忘れずに」
まるで旅行に出る人の言葉だ。
「食事は冷蔵庫にあります」
昨日、梓が作ったものだ。
こんな状況でも生活の話をする。
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「……必ず、帰ってきますよね」
思わず出た言葉。
原澤は少しだけ目を細める。
「ええ」
穏やかな微笑。
「約束はできませんが」
その一言が胸を刺す。
祓屋は約束をしない。
できないからだ。
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扉が閉まる。
静寂。
家が急に広くなった気がした。
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■数日後
ニュースが流れる。
高野山で大規模な山火事。
原因不明。
延焼範囲は広大。
文化財の被害多数。
負傷者不明。
映像には赤い炎の海が映っていた。
夜の山が丸ごと燃えている。
消防でも止められない規模。
梓の指が震える。
「……そんな……」
嫌な予感が形を持つ。
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その夜、原澤からの連絡はなかった。
翌日も。
その次の日も。
通信は不通。
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数日後、祓屋ネットワークに短い報告が上がる。
残響反応――消失。
現象――終息。
対応者――未帰還。
それだけ。
名前もない。
詳細もない。
ただ「終わった」と書かれている。
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梓は画面を見続けた。
意味が理解できない。
終息したのに、誰も帰ってこない?
そんなことがあるのか?
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中森からの連絡もない。
沈黙。
それが答えだった。
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部屋の空気が重くなる。
原澤のペン。
湯のみ。
置きっぱなしの本。
すべてがそのまま残っている。
人だけがいない。
消えたのではない。
「いなくなった」。
その違いが恐ろしい。
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膝から力が抜ける。
「……嘘……ですよね……」
返事はない。
祓屋の世界に奇跡はない。
結果だけが残る。
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そのとき。
背後から声がする。
《……可哀想に》
優しく、慈悲深く。
《あなたは見捨てられたのですよ》
梓は振り向く。
誰もいない。
《実力があれば同行できた》
胸が締めつけられる。
《留守番を命じたのは――あなたが役に立たないから》
言葉が刃になる。
《つまり、あなたが原因です》
息が止まる。
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果心居士。
術の中。
後悔を最大化する声。
《あなたが弱かったから》
《あなたが未熟だったから》
《あなたが足手まといだったから》
視界が揺れる。
《だから彼は一人で行った》
《だから帰ってこない》
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「違う……」
声が震える。
「違う……!」
だが心が否定しきれない。
もし自分がもっと強ければ。
同行できていれば。
助けられたのではないか。
答えは出ない。
出ないからこそ、地獄になる。
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《あなたは守られる側です》
原澤の言葉が蘇る。
《まだ》
その「まだ」が、永遠に変わらない言葉に聞こえる。
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《あなたが祓屋にならなければ》
《彼は生きていた》
胸が裂ける。
呼吸ができない。
罪悪感が形を持って押し潰してくる。
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《消えてしまえば楽になりますよ》
甘い声。
《彼を苦しめた世界から、消えてしまえば》
膝を抱え、頭を下げる。
涙が止まらない。
逃げ場がない。
どこにも救いがない。
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遠くで、炎の匂いがした。
高野山の火。
すべてを焼き尽くした炎。
修正されたのか。
削除されたのか。
誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
原澤が帰ってこないという事実だけだった。




