第31話 戻れない日常 その4 紹介
その日は朝から雨だった。
梓が台所に立ち、味噌汁を作っていると、背後で戸棚の扉が落ちた。
「……直します」
淡々とした声。
ドライバーを持ち出し、数分で応急処置をする。
祓屋としては天才的だが、生活能力は壊滅的だ。
原澤は椅子に座り、申し訳なさそうに湯気を見ている。
「すみません、いつも」
「いいえ。生活は人間の基礎ですから」
梓は苦笑する。
こういうところが、この人の魅力でもある。
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食事が終わると、原澤は少し真面目な顔になった。
「今日は外出します」
「案件ですか?」
「いいえ」
一拍。
「装備の調整です」
梓の背筋が伸びる。
「あなたの道具を整える必要があります」
祓屋にとって道具は命綱だ。
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向かったのは、都心から外れた古いビルだった。
看板は出ていない。
表向きは使われていない建物。
だが地下へ続く階段の先には、微かな光がある。
「ここは……?」
「情報と物資の窓口です」
曖昧な言い方。
それ以上は説明しない。
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扉を開けると、別世界だった。
狭い部屋。
だが中は機材で埋め尽くされている。
古い机。
解析装置。
札の束。
金属ケース。
見たことのない部品。
そして、煙草の匂い。
「遅いぞ」
低い声。
椅子に座っていた男が振り向く。
無精髭。
鋭い目。
だがどこか疲れている。
中森安行だった。
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「新入りか?」
梓を値踏みするように見る。
原澤は頷く。
「真名井梓さんです」
「ふーん」
興味なさそうに煙を吐く。
「まあ、長生きしろよ」
挨拶がそれだけ。
梓は軽く会釈する。
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原澤はバッグから装備を取り出した。
黒い棒状端末。
八鍵。
「状態は?」
中森が受け取り、分解する。
手つきが異様に慣れている。
「……酷使してるな」
「仕事が多いので」
「壊れたら死ぬぞ」
「ええ」
淡々とした会話。
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次に、小型のイヤーカフとマイク。
「祓詞用の発声入力装置だ」
中森が説明する。
「声が届かねぇ状況でも、骨伝導で拾う」
梓はそれを見つめる。
神具の形をしているのに、完全に機械だ。
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最後に、量子暗号札の束。
中森の表情が少しだけ厳しくなる。
「……減ってるな」
「補充をお願いします」
「タダじゃねぇぞ」
原澤は黙って別のケースを差し出した。
中森はそれを開く。
中にある黒い結晶を見て、目が細くなる。
「……質は悪くねぇ」
短く言う。
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梓には何か分からない。
ただ、空気が重くなったのは分かる。
「……席を外してもらえますか」
原澤が穏やかに言う。
「奥に待合があります」
梓は頷き、部屋を出た。
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扉が閉まる。
沈黙。
中森は煙草を押し潰した。
「…例の件だか…侵食が進んでる」
低い声。
「時間がねぇ」
原澤は目を伏せる。
「……状態は?」
「不安定なままだ」
一拍。
「遅れると消えかける」
空気が凍る。
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「……お前が助けてくれたんだろ」
責める声ではない。
確認。
「……はい」
「なら最後まで面倒見ろ」
冷たい言葉。
だがその奥には必死さがある。
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中森はケースの結晶を指でなぞる。
「残穢は足りてる」
「精錬も進んでる」
机の上には薬瓶が並んでいた。
黒い液体。
不気味な光。
「これがなきゃ、もう持たねぇ」
視線は瓶から動かない。
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「武器にも回してる」
棚に置かれた刃物を見る。
「……滅殺専用だ」
原澤は黙ったまま。
「修正だけじゃ、どうにもならん連中が増えてる」
吐き捨てるように言う。
「世界は綺麗事で回ってねぇ」
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中森がふと顔を上げる。
「……あの子はどうだ」
梓のことだ。
「感受性が高い」
原澤の答えは簡潔だった。
「……危険だな」
「はい」
「だが使える」
原澤は少しだけ目を細める。
「使うつもりはありません」
「使われるぞ」
断言。
「そのうちな」
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「あの子は転位侵界に触れる可能性があるぞ」
その言葉に、原澤の表情が初めて変わる。
「……まだ早い」
「早い遅いの問題じゃねぇ」
中森は笑わない。
「向こうが選ぶ」
祓屋ではない。
世界でもない。
何か別の基準。
「そうならねぇことを祈れ」
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沈黙が落ちる。
「……娘さんは」
原澤が静かに言う。
「……解呪はまだ見つかりませんか」
中森は何も答えない。
ただ拳を握る。
爪が食い込むほど強く。
「……今は延命だけだ。…頼む」
それだけ。
命令でも依頼でもない。
父親の声だった。
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外では、梓が椅子に座っていた。
地下の空気は冷たい。
静かすぎる。
何かがおかしい。
この場所は――
祓屋のためだけの施設ではない。
もっと別の用途がある。
言葉にできない不安が胸に溜まる。
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扉が開いた。
「お待たせしました」
原澤はいつもの穏やかな顔だ。
何もなかったように。
中森も同じ。
「装備は整いました」
イヤーカフと札を手渡される。
「大切に使ってください」
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梓は頷く。
だが違和感は消えない。
この人たちは、何かを隠している。
自分が知らなくていい何かを。
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帰り道。
雨は止んでいた。
「中森さんは……何をしている人なんですか?」
原澤は少しだけ考える。
「必要な物を用意してくれる人です」
それだけ。
説明になっていない。
「祓屋ではない?」
「ええ」
「ですが」
一拍。
「世界の均衡に必要な方です」
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梓はそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
知らないままでいた方がいい領域がある。
直感がそう告げていた。
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地下の部屋では、中森が一人残っていた。
薬瓶を見つめる。
震える指で触れる。
「……必ず助ける」
誰に向けた言葉かは分からない。
だがそれは祓屋でも世界でもない。
ただの父親の祈りだった。




