第31話 戻れない日常 その3 初めての修正
原澤と出会って、二年が過ぎていた。
季節は何度も巡り、街の景色は変わった。
だが梓の時間は、あの日からずっと現実と残響の境界に留まったままだった。
祓屋としての基礎は叩き込まれた。
祓詞の構文。
量子暗号札の扱い。
八鍵による状態読み取り。
残響の分類と対処法。
そして何より、死なないための動き。
原澤の指導は厳しいが怒鳴ることはなかった。
代わりに何度でもやり直させる。
理解するまで、手を止めない。
生活面では相変わらずだった。
洗濯物は溜まり、食事は適当、書類は山積み。
梓がいなければ事務所は三日で崩壊する。
祓屋としては一流。
人間としてはかなり残念。
その落差が、逆に救いでもあった。
⸻
今回の案件は、小規模だった。
古いアパートの一室。
住人は独居老人。
数日前に孤独死しているのが発見された。
だが、その後から妙な現象が続いた。
夜になると、部屋の電気がつく。
物音がする。
隣室の住人が何かに叩かれる。
典型的な定着型残響。
「強くはありません」
原澤は静かに言った。
「あなたでも対応可能です」
梓の喉が乾く。
「……本当に、私が?」
「はい」
迷いのない返答。
「私は補助に回ります」
胸が強く脈打つ。
初めて任される。
修正を。
⸻
部屋に入った瞬間、空気が変わる。
冷たい。
湿っている。
誰もいないのに息苦しい。
生活の痕跡が残っている。
食べかけの菓子。
新聞。
テレビのリモコン。
そこに「人がいた」証拠だけがある。
だが――
気配は空っぽだ。
⸻
視界の端が歪む。
台所の奥。
何かが立っている。
老人の輪郭。
顔は見えない。
だが分かる。
怒っていない。
恨んでいない。
ただ――寂しい。
胸が締め付けられる。
(……一人だったんだ)
家族も、訪問者も、看取る者もいない。
気づかれず、死んだ。
存在が世界から静かに切り離された。
梓の目に涙が浮かぶ。
⸻
「集中してください」
原澤の声。
優しいが厳しい。
梓は息を整える。
量子暗号札を取り出す。
八鍵を握る。
震える指を止める。
「状態……読み取り」
空間の構造が流れ込む。
悲鳴ではない。
怒りでもない。
孤独。
それだけ。
世界に残った、空白のような感情。
⸻
「修正プロトコル、入力」
祓詞を紡ぐ。
教えられた通りに。
だが声は少し震えている。
老人の影がこちらを向く。
ゆっくりと歩いてくる。
怖くない。
むしろ――
近づいてほしいと思ってしまう。
(この人……誰かに気づいてほしかっただけだ)
梓は一歩も下がらなかった。
原澤は止めない。
⸻
影が手を伸ばす。
触れられる距離。
氷のように冷たい気配。
だが梓は逃げない。
祓詞を続ける。
「……中和・整調」
空間が揺れる。
影が崩れる。
粒子のように解ける。
光でも闇でもない何かに変わる。
そして――消えた。
⸻
静寂。
部屋はただの空き部屋に戻っていた。
圧迫感も冷気もない。
普通の空気。
普通の沈黙。
梓はその場に立ち尽くす。
「……終わった?」
「はい」
原澤が静かに頷く。
「成功です」
胸の奥が震える。
安堵。
達成感。
そして――
強烈な虚無。
(あの人……本当に消えた)
救ったのか。
消したのか。
判断がつかない。
涙が頬を伝う。
⸻
外に出る。
夜風が頬に触れる。
現実が戻ってくる。
「よくできました」
原澤の声は穏やかだ。
だが表情は複雑だった。
「怖く、なかったですか?」
梓は少し考える。
「……怖かったです」
本当だ。
「でも、それより……」
言葉を探す。
「一人にしておけない、って思いました」
沈黙。
原澤の視線が鋭くなる。
⸻
「それが問題です」
低く言う。
叱責ではない。
警告。
「残響は、必ずしも被害者ではありません」
「……でも今のは」
「今回は偶然です」
言葉は柔らかいが断定的。
「寄り添いすぎると、取り込まれます」
梓の胸がざわつく。
「あなたは感受性が強い」
視線を外さず続ける。
「相手の感情を受け取りすぎる」
風が吹く。
「それは武器になります」
一拍。
「同時に、最大の弱点でもある」
⸻
梓は唇を噛む。
「……見捨てるべきだったんですか」
「違います」
即答だった。
「距離を取るべきです」
原澤の声は優しい。
「自己犠牲は美徳ではありません」
静かに、しかし確実に言う。
「祓屋が死ねば、次の被害者が出るだけです」
合理的で、残酷な真実。
⸻
「あなたは優しすぎる」
夜の闇の中で、その言葉だけが浮く。
「だから危険です」
梓は俯く。
嬉しくない評価。
むしろ怖い。
自分の性質が、命取りになると言われている。
⸻
原澤は少しだけ笑った。
疲れたような、困ったような笑み。
「……ですが」
続ける。
「その優しさがなければ、修正はできません」
梓が顔を上げる。
「感情を理解しない人間は、構造しか見ない」
「構造だけでは、人は戻りません」
夜風が二人の間を通る。
「だから私は、あなたを弟子にした」
静かな告白。
⸻
梓の胸が締め付けられる。
認められた。
同時に――
逃げ場がないと知る。
「ただし」
原澤の声が少しだけ硬くなる。
「自分を捨てる覚悟だけは、持たないでください」
奇妙な言葉だった。
祓屋は命を賭ける仕事だ。
それなのに――
「あなたが消えたら、誰も修正できなくなる」
それは弟子への言葉であり、
未来への警告でもあった。
⸻
梓は静かに頷いた。
その意味を、まだ半分しか理解していないまま。
この先、自分がどれほど危険な存在になるのかを、
まだ知らないまま。




