第31話 戻れない日常 その2 実地訓練
現場は、古い公園だった。
住宅街の真ん中にある、ごく普通の児童公園。
だが入口には黄色いテープが張られ、近隣には「設備点検中」とだけ説明されている。
警察の姿はない。
「表向きは故障対応です」
原澤は静かに言った。
「残響の件は、基本的に公表されません」
梓は周囲を見渡す。
滑り台。
ブランコ。
砂場。
どこにも異常はない。
「……ここに、いるんですか?」
「ええ」
原澤は頷いた。
「子どもが近づかなくなったそうです。理由は説明できないが、とにかく怖いと」
風が吹く。
錆びたブランコが、ぎぃ、と揺れた。
それだけで、胸の奥がざわつく。
「動物も寄りつかない。典型的な前兆です」
梓は足元を見る。
鳥の糞がない。
虫の羽音もない。
草の揺れも少ない。
生命が避けている。
⸻
「ここから先は、私の後ろを離れないでください」
原澤が一歩踏み出す。
梓も続く。
境界を越えた瞬間。
音が消えた。
遠くの車の音も、風も、すべてが遠のく。
まるで水の中に入ったような感覚。
「……これが境界です」
原澤の声だけがはっきり聞こえる。
「残響の影響下に入っています」
梓は振り返る。
公園の外は見える。
だがガラス越しのように遠い。
「残響空間は二種類あります」
原澤は歩きながら説明する。
「向こうに引きずり込まれる場合と、こちらから干渉して入り込む場合」
梓は息を飲む。
「今回は後者です」
「……入っていってるんですか?」
「ええ」
淡々とした答え。
「小規模な残響や、祓屋を拒絶するタイプは、こちらから侵入しないと修正できません」
つまり――
敵の巣に踏み込んでいる。
⸻
数歩進むごとに、空気が重くなる。
呼吸が浅くなる。
耳鳴りがする。
「完全に取り込まれると、ここは現実ではなくなります」
原澤の声は落ち着いている。
「物理法則も、時間も、因果も保証されません」
梓の指先が震えた。
「残響の深層心理が、そのまま世界になる」
視界が揺らぐ。
ブランコが増えている。
一つだったはずが、三つ、五つ、七つ。
すべて同じ形で揺れている。
誰も乗っていないのに。
ぎぃ。
ぎぃ。
ぎぃ。
「見ないでください」
原澤が低く言う。
「観測は干渉になります」
梓は慌てて視線を逸らす。
「残響は、認識されることで強化される場合があります」
つまり見るだけで危険。
⸻
「ここで受けた傷は、現実にも残ります」
さらりと言われた。
梓は思わず立ち止まる。
「……え?」
「肉体は連動しています」
原澤は振り返らない。
「深層での損傷は、現実側に反映される」
つまりここで刺されれば、現実でも刺される。
「死亡した場合――」
一拍。
「神隠しとして処理されます」
梓の背筋が凍る。
「遺体は残りません」
消える。
完全に。
「存在ごと削除されるため、事故や失踪として扱われます」
言葉が理解できない。
脳が拒否している。
「祓屋の死亡率が高い理由です」
穏やかな声。
まるで天気の話のように。
⸻
公園の中央。
砂場の上に、影があった。
人の形をしている。
だが輪郭が曖昧。
顔がない。
空洞だけがある。
なのに、こちらを見ていると分かる。
「迷子の残響ですね」
原澤が言う。
「事故死した子どもの可能性が高い」
梓の足がすくむ。
逃げたい。
でも身体が動かない。
恐怖が筋肉を凍らせる。
⸻
原澤が八鍵を取り出した。
黒い棒状端末。
無機質な祈りの道具。
「修正を行います」
量子暗号札を指に挟む。
動作が滑らかで、無駄がない。
「状態読み取り」
空気が震える。
目には見えないが、圧力だけが増す。
「起点特定」
影の周囲が歪む。
「結び確認」
祓詞が紡がれる。
意味は分からない。
だが言葉ではない何かが空間を満たす。
⸻
影がこちらを向いた。
見られた。
その瞬間、足元の砂が動く。
影が伸びる。
来る。
逃げなきゃ。
頭では分かる。
でも動けない。
⸻
原澤が一歩前に出た。
梓を庇う位置。
「大丈夫です」
低く優しい声。
影はそれ以上近づけない。
祓詞が続く。
歪みが収束する。
影が薄くなる。
そして――消えた。
⸻
音が戻る。
風。
鳥。
遠くの車。
公園は普通の公園に戻っていた。
梓はその場に崩れ落ちる。
膝が震えて立てない。
「……すみません」
情けない声が漏れる。
「何もできなくて」
原澤は首を振った。
「普通です」
怒りも失望もない。
「初めての人は、ほとんど動けません」
それが逆に刺さる。
期待されていないということだから。
「今日は同行です」
穏やかな声。
「見ることが目的です」
⸻
梓は涙を拭った。
「守られてるだけです」
声が震える。
「私……何の役にも立ってない」
原澤は少し考えてから言った。
「守られるのも重要な仕事です」
慰めではない。
「無理に動いて、二人とも危険になる方が問題です」
一拍。
「生きていることが最優先です」
祓屋の倫理。
まず死なないこと。
⸻
境界を越えた瞬間、空気が軽くなる。
肺が痛むほど息が流れ込む。
生きている。
だが胸は軽くならない。
助かったのに。
成功したのに。
残るのはただ一つ。
無力。
原澤の背中を見ながら、梓は思った。
この人がいなければ、
私はここで消えていた。
祓屋になると決めたのに。
まだ――守られる側のままだ。




