第30話 知らなければ、救われた その5 形を借りた技術
原澤は床に置かれた箱を引き寄せ、蓋を開けた。
中には、布に包まれた細長いものと、小さな束がいくつか入っている。
「まず、これを」
丁寧に布を解く。
現れたのは、黒い棒だった。
木でも金属でもない質感。
表面は光を吸うように鈍く、継ぎ目が見えない。
長さは三十センチほど。錫杖を小型化したような形状。
「八鍵です」
梓は思わず聞き返した。
「……武器、ですか?」
「いいえ」
即座に否定される。
「道具です」
原澤は軽く持ち上げた。
「見た目は宗教的ですが、役割は違います」
先端を指でなぞる。
「状態読み取り。修正プロトコル入力。構造再結線」
まるで機械の仕様説明のようだった。
「簡単に言えば」
一拍置く。
「世界の不具合を操作するための端末です」
梓は言葉を失った。
端末。
つまり、コンピュータの入力装置と同じ。
「……杖じゃないんですね」
「ええ」
少し笑う。
「巫杖の形を借りているだけです」
借りている。
その言葉が引っかかる。
「なぜ、その形なんですか」
原澤は机の端に腰を掛けた。
「人は、意味のある形に安心します」
静かな声。
「未知の装置より、見覚えのある儀式具のほうが受け入れやすい」
梓は胸の奥が冷えるのを感じた。
「つまり……偽物?」
「偽物ではありません」
穏やかに訂正する。
「機能は本物です」
八鍵を軽く振る。
「ただ、設計思想が違う」
視線が向けられる。
「技術を信仰の形に落とし込んでいる」
梓は思わず呟いた。
「……逆じゃないんですか」
「逆です」
はっきりと言う。
「神秘を科学にするのではない」
静かな断言。
「科学を神秘に見せている」
部屋の空気が重くなる。
「人間が扱えるようにするためです」
それは優しさなのか、危険なのか分からない。
原澤は箱の中の束を取り出した。
カードサイズより少し大きい鉄の薄い板。
だが普通の鉄板ではない。表面に複雑な幾何学模様が刻まれている。
「量子暗号札」
梓は息を呑む。
「お札……?」
「そう呼ばれています」
しかし、言い方は事務的だ。
「媒介装置です」
一枚を指で挟む。
「人間の意図を、世界側が解釈可能な形式に変換する」
まるで翻訳機だ。
「祈りや呪文ではありません」
梓の背筋が震える。
「命令です」
はっきり言った。
「ただし、人間が直接書き込むと破綻する」
札を箱に戻す。
「だから既定の形式を使う」
つまりテンプレート。
梓の頭の中で、SEとしての知識が勝手に結びつく。
「……APIみたいなもの?」
原澤は少し驚いたように笑った。
「分かりやすい例えですね」
肯定された。
「人間は世界の仕様を知らない」
視線が遠くを見る。
「だから、安全な入口だけを使う」
梓は無意識に息を整えていた。
宗教でも魔法でもない。
システム。
しかも恐ろしく巨大な。
「……誰が作ったんですか」
その問いに、原澤は一瞬だけ沈黙した。
「ある人です」
曖昧な答え。
「祓屋に必要な道具と情報を管理している」
それ以上は言わない。
だが続ける。
「私も、その人から受け取りました」
箱の中を静かに閉じる。
「道具は消耗品です。補充も必要になります」
梓は気づく。
「……つまり」
「供給源がある」
否定しない。
「私たちは自給自足ではありません」
それは重要な事実だった。
孤独な戦いではない。
しかし同時に、依存がある。
原澤はやや困ったように頭を掻いた。
「少し癖のある方ですが」
苦笑する。
「悪い人ではありません」
原澤は再び八鍵を手に取る。
「祓屋は超常の存在ではありません」
静かな断言。
「装備と手順がなければ何もできない」
梓の目を見て言う。
「だからこそ危険です」
道具があれば誰でも触れられる。
そして壊せる。
「力ではなく、理解が必要になります」
八鍵を梓に差し出した。
「持ってみますか」
恐る恐る受け取る。
見た目より軽い。
しかし奇妙な感触がある。
冷たいわけでも、温かいわけでもない。
存在だけがはっきりしている。
梓の指が震えた。
「……何も起きません」
「当然です」
原澤は穏やかに言う。
「鍵は、使い方を知らなければただの棒です」
鍵。
その言葉が胸に残る。
開けるためのもの。
そして閉じるためのもの。
原澤は静かに続けた。
「祓屋は奇跡を起こす人間ではありません」
淡々とした声。
「起きてしまったことを元に戻すだけです」
それは英雄ではない。
修理工だ。
梓は八鍵を見つめた。
この棒一本で、世界が変わる。
そして多分、人も変わる。
原澤は穏やかに言った。
「怖いですか」
梓は正直に答えた。
「……はい」
即答だった。
原澤は少し安心したように微笑んだ。
「それなら大丈夫です」
怖がれるうちは、まだ人間だ。
言葉にはしないが、そう聞こえた。
窓の外は、すでに夜になっていた。
日常から切り離された時間。
戻れない道の入口。
梓は気づいてしまう。
自分はもう、知らなかった頃には戻れない。




