第30話 知らなければ、救われた その3 出口のない駅
列車は去った。
金属の軋みと共に、最後尾の赤い灯が闇に溶けていく。
その光が消えた瞬間、世界は不自然なほど静かになった。
真名井梓は、ホームの中央で立ち尽くしていた。
降りられた。
確かに降りた。
扉は閉まり、列車は走り去った。
助かった――はずだった。
だが。
何も終わっていない。
駅名標。
ベンチ。
広告。
自販機。
すべてがある。
ただし。
人がいない。
改札へ向かう階段を上る。
靴音だけが空間に反響する。
嫌な静けさだった。
音が消えているのではない。
空気が音を吸っている。
改札は開いている。
通れる。
何の障害もない。
なのに。
胸が締め付けられる。
恐る恐る一歩踏み出す。
改札を通る。
――通れた。
振り返る。
そこには。
同じホームがあった。
「……え?」
喉が鳴る。
もう一度、通る。
同じ。
別の改札。
別の階段。
別の通路。
すべて同じ場所へ戻る。
出口がない。
最初から存在しなかったかのように。
「……やだ……」
走る。
壁を叩く。
固い。
現実のコンクリート。
幻ではない。
それでも出られない。
「誰か……!」
声は返ってくるだけ。
助けは来ない。
そのとき。
線路の奥から、擦れる音がした。
闇の中から、影が現れる。
一つ。
二つ。
やがて無数。
列車に乗っていた者たち。
死者。
顔が崩れ、目がなく、口だけが開いている。
しかし歩いてくる。
ゆっくりと。
確実に。
逃げ場はない。
梓は後ずさり、壁にぶつかった。
死者の手が伸びる。
腐った指先が、空気を掴む。
――道連れ。
その意図だけが分かる。
「来ないで……」
声が震える。
指が肩に触れた瞬間――
空気が裂けた。
見えない衝撃が走る。
死者の群れが、まとめて後方へ押し流された。
爆発のようだが音はない。
世界の形だけが歪む。
梓の前に、人影が立っていた。
黒のジャケット。
落ち着いた背中。
神社で見た男。
原澤伸。
彼は振り返らない。
「動かないでください」
穏やかな声。
死者たちは見えない壁に阻まれたように近づけない。
原澤が手を払う。
何かを断つように。
すると死者の群れが霧のように崩れ始めた。
形を失い、粒子のように消えていく。
やがてホームは空になった。
静寂だけが残る。
原澤はゆっくり振り返る。
「……無事ですか」
梓は声を出せない。
涙だけが落ちる。
「どうして……」
かすれた声。
「どうして、助けるんですか……」
原澤は答えない。
周囲を確認し、静かに言う。
「帰ってください」
それだけ。
「関わらない方がいい。命を落とします」
断定だった。
梓は震えながら首を振る。
「…嫌です!」
自分でも驚くほどはっきりした声だった。
「もう……戻れません」
原澤の眉がわずかに動く。
「さっきの……あれ……」
言葉が詰まる。
「知らなかった頃の私には、もう戻れないんです……!」
涙が止まらない。
「普通に電車に乗って、会社に行って、笑って……そんなこと、もうできません……!」
原澤は黙る。
何も言わない。
それが一番残酷だった。
「教えてください……!」
梓は叫ぶ。
「何なんですか、あれは! どうすればいいんですか!」
沈黙。
「助けてくれたなら、最後まで責任を取ってください……!」
言ってから、自分の言葉に震える。
理不尽だと分かっている。
それでも止められない。
「放っておかれたら……私、また行きます」
原澤の視線が鋭くなる。
「…今度は、死ぬまで!」
静かな宣言だった。
虚勢ではない。
覚悟でもない。
壊れかけた人間の、本音。
原澤は長く息を吐いた。
目を閉じる。
疲れ切った表情。
「……どうして、そこまで」
独り言のように呟く。
梓は答える。
「知ってしまったからです」
間違いのない答えだった。
原澤はしばらく黙り込む。
やがて。
本当に諦めたように目を開けた。
「……分かりました」
穏やかな声だった。
だが、重い。
「あなたが死なないように、最低限のことだけ教えます」
それは承諾ではない。
敗北だった。
「ただし――」
一歩近づく。
「これは救いではありません」
静かに告げる。
「知れば、戻れません」
梓は頷く。
もう迷いはない。
「それでもいいです」
原澤は小さく目を伏せた。
「……本当に、困った人ですね」
責めているのではない。
悲しんでいる声だった。
その瞬間。
駅に人の気配が戻る。
アナウンスが流れる。
列車の走行音。
足音。
現実が上書きされる。
だが梓は理解していた。
もう同じ世界には立っていない。




