第30話 知らなければ、救われた その1 帰された部屋
目を開けた瞬間、最初に感じたのは「匂い」だった。
病院でも自宅でもない。薬品でも消毒でもない。焦げでも血でもない。――ただ、乾いた布と古い木の匂い。誰かの生活の匂い。
天井は低く、照明は暗い。白熱灯が小さく唸っている。視界の端に、雑多な工具箱と、黒いケースが見えた。アタッシュケースのような形だが、普通の留め金ではない。細い溝が、祝詞みたいに絡み合って刻まれている。
喉が痛い。息を吸うと胸の奥が焼けるように痛んだ。
体は動く。折れてはいない。裂けてもいない。――なのに、心臓だけがまだ「逃げ遅れている」。さっきまで自分を殺しに来ていた“何か”の気配を、皮膚が覚えて離さない。
布団の端に、湯気の立つマグカップ。
水。ではない。薄い甘さと、生姜の刺激。喉が勝手に飲もうとする。飲めば少し楽になると体が知っているのが、逆に怖い。ここは、他人の管理下だ。優しさに見えるものほど、まず疑う癖が残っていた。
「起きましたか」
声は、正面ではなく、少し横から。
椅子に腰かけた男がいた。背が高い。姿勢がいいのに威圧がない。笑っているのか、笑顔の形が固定されているのか、判別がつかない。髪はボリュームのある真ん中分けで、年齢より若く見えた。だが目だけが、妙に静かだった。
「……あなた」
言葉を出した瞬間、自分の声がひどく細いことに気づく。
情けない、ではない。現実味が薄い。夢の中で会話しているみたいに、声が体から離れていく。
男は、困ったように笑った。
「大丈夫。痛いでしょうけど、死んでません。……まず、それが一番です」
「……何が、起きたんですか」
喉が乾いて、質問が震える。
脳が追いつかない。神社。夜。カップル。カメラの赤いランプ。悲鳴。月明かり。――そして、空間が、裏返った。
「何が起きたか、ですか……」
男は少しだけ視線を逸らし、考えるふりをした。考えていない。言い方を選んでいるだけだ。
「……起きたことを知るのは、あなたにとって良くない」
その言葉の冷たさに、背中が粟立った。
善意で言っているのが分かるから、余計に怖い。善意は、拒否しにくい。
「良くない、って……」
「関わらない方がいい。あなたは一般の人です」
一般。
その言い方が、突き刺さった。自分が“外側”に分類された音がした。知らない側。触れてはいけない側。生きていていい側。
「……私は、見ました」
口が勝手に動く。
止めたくても、止まらない。言葉が、引き返せない場所に向かって走る。
「見たんです。あそこに……普通じゃないものがいた。人が……消えた」
男の笑顔が、ほんのわずかだけ固くなる。
その一瞬が、答えだった。
「あなたが見たのは、見間違いです」
「嘘だ」
自分の声が思ったより強く出た。
驚いたのは、自分だ。怒鳴りたいわけじゃない。けれど、嘘だと認めると、自分の世界が崩れる。崩れたまま生きることになる。
「……嘘じゃない」
男は穏やかに言い直した。
「あなたが見たものを、あなたが“そうだ”と確信するのが危険なんです」
「危険?」
「そう。危険です。……次は助けられない」
その「次」がある前提。
つまり、あれは偶然じゃない。繰り返される。条件が整えば、また起きる。私がそこにいれば、また巻き込まれる。
「あなたは、何をしたんですか」
梓は身を起こした。胸が痛む。だがそれでも起き上がった。
倒れていたら、また“外側”に戻される。ここで聞かなければ、一生、無かったことにされる。
「さっき、あなたは……あの空間に入って、何か言いました。声が……言葉が」
「祓詞です」
男は短く答えた。言ってしまった、と自分で気づいたように、すぐに付け加える。
「……でも、あなたには必要ない」
「必要です」
即答した。
必要かどうかを決めるのは、あなたじゃない。そう言いたいのに、言葉にすると喧嘩になる。けれど喧嘩でもいい。逃げるよりは。
男は、ため息をつかなかった。ため息をつくと、こちらが“面倒な人間”になるからだ。代わりに、笑顔のまま目を細めた。
「……名前だけ。名乗っておきます。原澤伸。たまたま通りかかっただけです」
「たまたま、で……あんなことができるんですか」
「できる人もいる。できない人もいる。……あなたは、できない側です」
はっきり言われた。
侮辱ではない。事実として突きつけられると、言い返せない。言い返せないのに、悔しい。悔しいのに、恐怖の方が勝つ。
「でも、私は……」
言いかけて、止まる。
ここで「青木理」と言いそうになった。胸の奥が、熱くなって、痛くなった。いなくなった人の名前を出すと、現実が戻ってくる。戻ってきて、傷が開く。
原澤は、梓の表情の変化を見逃さなかった。
見逃さないくせに、踏み込まない。その距離感が、妙に残酷だった。
「……帰れますか」
「帰れるか、じゃなくて」
梓は歯を食いしばった。
「帰ったところで、私は……納得できません」
原澤は、ほんの一瞬だけ、笑顔を消した。
それは“危険人物”を見る顔でも、“哀れな人”を見る顔でもない。もっと嫌なもの――自分の過去を見るような顔だった。
「納得、ですか」
「はい」
「納得のために、命を捨てますか」
梓は答えられなかった。
捨てたいわけじゃない。生きたい。普通に。ちゃんと。だけど、あの瞬間に見た世界を、見なかったことにして生きるのは、別の死だ。
原澤は立ち上がり、部屋の隅から梓のバッグを持ってきた。汚れていない。中身も減っていない。――丁寧すぎる。
「今日は帰りなさい。送ります。……そして、忘れてください」
「忘れられません」
「忘れられないなら、せめて探さないでください」
その言葉は、命令ではなく、祈りに近かった。
⸻
自宅の部屋に戻った瞬間、安心は来なかった。
玄関の鍵をかけても、カーテンを閉めても、洗面所の鏡を見ないようにしても、背中の薄い皮膚が、ずっと「触られている」感覚を捨てられない。
眠ろうとすると、音が消える。
あの“無音”が戻ってくる。心臓の音だけが過剰に響き、世界の境界が薄くなる。
梓は、ノートPCを開いた。
怖い。けれど、怖いからこそ、情報にすがる。形のあるものに。記録に。ログに。事実に。
検索欄に打つ。
「失踪 条件」
「神社 満月 時間」
「防犯カメラ 映らない」
「人がいないのに音」
「同じ夢 集団」
「電車 幽霊列車」
「終電 消える」
画面には、嘘みたいな話が並ぶ。
けれど、嘘の質が違う。作り話の軽さがない。投稿者の文が、妙に生々しい。語彙が乱れて、感情が擦れている。――体験した人間の文章だ。
梓は、ひとつひとつを開いていった。
地図を照合する。日時を並べる。月齢を重ねる。路線を引く。条件を抽出する。仕事でやっていたのと同じ。業務のバグを潰すときと同じ。原因を探し、再現条件を揃え、切り分ける。
そのうち、指先が冷たくなった。
胸の奥が、変に静まる。怖さが消えるのではない。怖さが“整理されていく”のが、もっと怖い。
(……ある)
ある。
世界のどこかに、“触れてはいけない挙動”が確かに存在する。
そして、私は――それを見つけられてしまう。
原澤の言葉が、遅れて刺さる。
「あなたが“そうだ”と確信するのが危険なんです」
梓は画面を見つめたまま、息を吐いた。
吐いた息が、部屋の中で薄く白く見えた気がして、ぞっとする。暖房は入っている。寒いはずがない。――なのに寒い。
机の上のメモに、ひとつだけ太い字で書いた。
「幽霊列車」
その下に、路線名と、時間帯。
そして、月齢。
心臓が、また少し速くなる。
これは正しい。正しいはずだ。
正しさは、人を救う。――そう信じたい。
けれど、この世界では、正しさが一番、人を殺す。
梓はPCを閉じた。
閉じても終わらない。もう始まっている。自分の中で。
知らなければ、救われた。
知ってしまった。
だから、次は――自分で確かめる。




