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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第30話 知らなければ、救われた その1 帰された部屋

目を開けた瞬間、最初に感じたのは「匂い」だった。

病院でも自宅でもない。薬品でも消毒でもない。焦げでも血でもない。――ただ、乾いた布と古い木の匂い。誰かの生活の匂い。


天井は低く、照明は暗い。白熱灯が小さく唸っている。視界の端に、雑多な工具箱と、黒いケースが見えた。アタッシュケースのような形だが、普通の留め金ではない。細い溝が、祝詞みたいに絡み合って刻まれている。


喉が痛い。息を吸うと胸の奥が焼けるように痛んだ。

体は動く。折れてはいない。裂けてもいない。――なのに、心臓だけがまだ「逃げ遅れている」。さっきまで自分を殺しに来ていた“何か”の気配を、皮膚が覚えて離さない。


布団の端に、湯気の立つマグカップ。

水。ではない。薄い甘さと、生姜の刺激。喉が勝手に飲もうとする。飲めば少し楽になると体が知っているのが、逆に怖い。ここは、他人の管理下だ。優しさに見えるものほど、まず疑う癖が残っていた。


「起きましたか」


声は、正面ではなく、少し横から。

椅子に腰かけた男がいた。背が高い。姿勢がいいのに威圧がない。笑っているのか、笑顔の形が固定されているのか、判別がつかない。髪はボリュームのある真ん中分けで、年齢より若く見えた。だが目だけが、妙に静かだった。


「……あなた」


言葉を出した瞬間、自分の声がひどく細いことに気づく。

情けない、ではない。現実味が薄い。夢の中で会話しているみたいに、声が体から離れていく。


男は、困ったように笑った。


「大丈夫。痛いでしょうけど、死んでません。……まず、それが一番です」


「……何が、起きたんですか」


喉が乾いて、質問が震える。

脳が追いつかない。神社。夜。カップル。カメラの赤いランプ。悲鳴。月明かり。――そして、空間が、裏返った。


「何が起きたか、ですか……」


男は少しだけ視線を逸らし、考えるふりをした。考えていない。言い方を選んでいるだけだ。


「……起きたことを知るのは、あなたにとって良くない」


その言葉の冷たさに、背中が粟立った。

善意で言っているのが分かるから、余計に怖い。善意は、拒否しにくい。


「良くない、って……」


「関わらない方がいい。あなたは一般の人です」


一般。

その言い方が、突き刺さった。自分が“外側”に分類された音がした。知らない側。触れてはいけない側。生きていていい側。


「……私は、見ました」


口が勝手に動く。

止めたくても、止まらない。言葉が、引き返せない場所に向かって走る。


「見たんです。あそこに……普通じゃないものがいた。人が……消えた」


男の笑顔が、ほんのわずかだけ固くなる。

その一瞬が、答えだった。


「あなたが見たのは、見間違いです」


「嘘だ」


自分の声が思ったより強く出た。

驚いたのは、自分だ。怒鳴りたいわけじゃない。けれど、嘘だと認めると、自分の世界が崩れる。崩れたまま生きることになる。


「……嘘じゃない」


男は穏やかに言い直した。


「あなたが見たものを、あなたが“そうだ”と確信するのが危険なんです」


「危険?」


「そう。危険です。……次は助けられない」


その「次」がある前提。

つまり、あれは偶然じゃない。繰り返される。条件が整えば、また起きる。私がそこにいれば、また巻き込まれる。


「あなたは、何をしたんですか」


梓は身を起こした。胸が痛む。だがそれでも起き上がった。

倒れていたら、また“外側”に戻される。ここで聞かなければ、一生、無かったことにされる。


「さっき、あなたは……あの空間に入って、何か言いました。声が……言葉が」


「祓詞です」


男は短く答えた。言ってしまった、と自分で気づいたように、すぐに付け加える。


「……でも、あなたには必要ない」


「必要です」


即答した。

必要かどうかを決めるのは、あなたじゃない。そう言いたいのに、言葉にすると喧嘩になる。けれど喧嘩でもいい。逃げるよりは。


男は、ため息をつかなかった。ため息をつくと、こちらが“面倒な人間”になるからだ。代わりに、笑顔のまま目を細めた。


「……名前だけ。名乗っておきます。原澤伸。たまたま通りかかっただけです」


「たまたま、で……あんなことができるんですか」


「できる人もいる。できない人もいる。……あなたは、できない側です」


はっきり言われた。

侮辱ではない。事実として突きつけられると、言い返せない。言い返せないのに、悔しい。悔しいのに、恐怖の方が勝つ。


「でも、私は……」


言いかけて、止まる。

ここで「青木理」と言いそうになった。胸の奥が、熱くなって、痛くなった。いなくなった人の名前を出すと、現実が戻ってくる。戻ってきて、傷が開く。


原澤は、梓の表情の変化を見逃さなかった。

見逃さないくせに、踏み込まない。その距離感が、妙に残酷だった。


「……帰れますか」


「帰れるか、じゃなくて」


梓は歯を食いしばった。


「帰ったところで、私は……納得できません」


原澤は、ほんの一瞬だけ、笑顔を消した。

それは“危険人物”を見る顔でも、“哀れな人”を見る顔でもない。もっと嫌なもの――自分の過去を見るような顔だった。


「納得、ですか」


「はい」


「納得のために、命を捨てますか」


梓は答えられなかった。

捨てたいわけじゃない。生きたい。普通に。ちゃんと。だけど、あの瞬間に見た世界を、見なかったことにして生きるのは、別の死だ。


原澤は立ち上がり、部屋の隅から梓のバッグを持ってきた。汚れていない。中身も減っていない。――丁寧すぎる。


「今日は帰りなさい。送ります。……そして、忘れてください」


「忘れられません」


「忘れられないなら、せめて探さないでください」


その言葉は、命令ではなく、祈りに近かった。



自宅の部屋に戻った瞬間、安心は来なかった。

玄関の鍵をかけても、カーテンを閉めても、洗面所の鏡を見ないようにしても、背中の薄い皮膚が、ずっと「触られている」感覚を捨てられない。


眠ろうとすると、音が消える。

あの“無音”が戻ってくる。心臓の音だけが過剰に響き、世界の境界が薄くなる。


梓は、ノートPCを開いた。

怖い。けれど、怖いからこそ、情報にすがる。形のあるものに。記録に。ログに。事実に。


検索欄に打つ。

「失踪 条件」

「神社 満月 時間」

「防犯カメラ 映らない」

「人がいないのに音」

「同じ夢 集団」

「電車 幽霊列車」

「終電 消える」


画面には、嘘みたいな話が並ぶ。

けれど、嘘の質が違う。作り話の軽さがない。投稿者の文が、妙に生々しい。語彙が乱れて、感情が擦れている。――体験した人間の文章だ。


梓は、ひとつひとつを開いていった。

地図を照合する。日時を並べる。月齢を重ねる。路線を引く。条件を抽出する。仕事でやっていたのと同じ。業務のバグを潰すときと同じ。原因を探し、再現条件を揃え、切り分ける。


そのうち、指先が冷たくなった。

胸の奥が、変に静まる。怖さが消えるのではない。怖さが“整理されていく”のが、もっと怖い。


(……ある)


ある。

世界のどこかに、“触れてはいけない挙動”が確かに存在する。

そして、私は――それを見つけられてしまう。


原澤の言葉が、遅れて刺さる。


「あなたが“そうだ”と確信するのが危険なんです」


梓は画面を見つめたまま、息を吐いた。

吐いた息が、部屋の中で薄く白く見えた気がして、ぞっとする。暖房は入っている。寒いはずがない。――なのに寒い。


机の上のメモに、ひとつだけ太い字で書いた。


「幽霊列車」


その下に、路線名と、時間帯。

そして、月齢。


心臓が、また少し速くなる。

これは正しい。正しいはずだ。

正しさは、人を救う。――そう信じたい。


けれど、この世界では、正しさが一番、人を殺す。


梓はPCを閉じた。

閉じても終わらない。もう始まっている。自分の中で。


知らなければ、救われた。

知ってしまった。


だから、次は――自分で確かめる。

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